《天鼓》@矢来能楽堂
先日、随分と久しぶりに能を観て来ました。
外は時折パラパラと雨粒の落ちる梅雨空だというのに神楽坂の町は地図を片手に散策する人やお買い物の人々でかなりの賑わいでしたが、能楽堂の門をくぐれば、そこはいつもながらのシットリと落ち着いた空間。
紫陽花や都忘れの花が清清しく出迎えてくれました。
今回の「のうのう能PLUS」の演目は、中国物の《邯鄲》と《天鼓》。
前半に法政大学教授で法政大学能楽研究所所長も務められた表章氏から《天鼓》の上演史の解説があり、能も時代の要請にあわせて様々に形を変化させながら現在まで伝えられて来たことを知りました。
解説の後に、中国物の《天鼓》にちなみ、栄枯盛衰とは極めて儚いことであると例えた中国故事をもとにした仕舞《邯鄲》が舞われ、私も瞬く間に幽玄の世界に引き込まれてゆきました。
この演目は豪華な装束も面も付けない上演ですが、その舞は片時も目が離せないくらいステキでした♪
◇ ◇ ◇
さて、《天鼓》は、中国・後漢時代のお話。
王伯、王母という夫婦がおり、ある日、妻の王母は、天から鼓が降って胎内に宿るという夢を見ました。そうして授かった子に天鼓と名づけると、その後、本当に天から鼓が落ちて来たのでした。
そして、鼓と共に成長した天鼓が、その鼓を叩くと、何とも妙な音がして、聴く者を感動させ喜びの声を上げさせるようになりました。
そんな話を耳にした帝は、鼓を召し出すようにと勅令をくだしますが、天鼓は嫌がり鼓を持って隠れてしまいます。
しかし、あえなく捕らえられて鼓を取り上げられ呂水に沈められてしまったのでした。
ところが、主を失った鼓は、誰が叩いても全く鳴りません。
そこで帝は勅使を送って天鼓の父王伯を呼びだします。
鼓が鳴らなければ自分も殺されるのを覚悟で、天鼓への思いを胸に鼓を打つと、この世のものとは思えない音が鳴り響いたのでした。
感動した帝は、天鼓の冥福を祈るため呂水のほとりで管弦講を行いました。すると天鼓の霊が現れ、懐かしい鼓を打ち、管弦に合わせて、ひとしきり喜びの舞を舞ったのでした。
◇ ◇ ◇
能の前半は、年老いた父王伯を演じたシテが、後半では一転して、天鼓の霊となって若く初々しい舞を披露。
その演じ分けの上手さには驚きました。
そして、それぞれの装束の素晴らしいこと。特に天鼓の霊で使われた面の美しさには強く魅せられました。
それにしても、この世のものとは思えない鼓の音って、どんな風に表現するのだろう?
小鼓が受け持つのかな?
それとも大鼓かな?
と興味津々その場面を待ち構えていたら、な、なんと!
そうなんです。
鼓を打つ所作をするだけで、実際に音はしないのです。
いいえ、観ている人それぞれの中で鼓は鳴っているのですよね。
ううううむ、これぞ能の醍醐味か?!
またも、やられちゃいました。
◇ ◇ ◇
仕舞《邯鄲》
観世喜正
能《天鼓 弄鼓之舞》
前シテ(王伯)後シテ(天鼓の霊):観世喜之
ワキ(勅使):宝生欣哉
間狂言(家来):山本泰太郎
笛:一噌庸二
小鼓:観世新九郎
大鼓:柿原弘和
太鼓:小寺真佐人
後見:観世喜正 桑田貴志
地謡:遠藤喜久 鈴木啓吾 佐久間二郎 中森健之介