05 January 2010

須賀敦子さんと麻布

Azabu06新しい年を迎えた穏やかな休日の朝、須賀敦子さんが父豊治郎さんの東京転勤にともない小学校3年から女学校3年までの期間(1937~1943)と、フランスに留学するまでの大学院生時代(1951~1953)をすごした麻布本村町界隈を散策して来ました。

以前にも一度、調べものがあって有栖川宮記念公園内の都立中央図書館へ出かけた際、そう言えば須賀さんの「麻布の家」って確か有栖川公園の近くだったなと、周辺を少し歩いてみたのだけれど、その時は急ぎ足だったので、今回は、ゆっくり、かつて須賀家の住まいのあった一角を探してみたり、妹の「こじょんちゃん」と一緒に歩いた聖心女子学院までの通学路を辿ってみました。

外国の大使館が多く、緑豊かで、娘二人が通う学校にも近いからと父豊治郎さんが選んだ麻布本村町は小高い丘の上の閑静な住宅街で、須賀さん一家が暮らす大きな古い家の建っていた116番地は、現在の南麻布三丁目6~8、11番一帯を含む広い敷地だったようです。

Azabu08『遠い朝の本たち』に収録されたエッセイの一節から、当時、その家の2階の窓から古川をへだてた向い側の丘に聖心女子学院の尖塔や伝染病研究所(現東京大学医科学研究所)の建物が臨めたことが解るのですが、現在は、その谷間に林立したビル群に遮られてしまい同じ眺めを確認するのは無理でした。
しかし、すぐ近くに、弟の新さんも通っていた港区立本村小学校が今も変わらずに存在しており、この辺りが須賀家の子供たちやご近所友達のマサコちゃんが遊びまわっていた場所に間違いないと確信できたのでした。

Azabu03ただ、どうしても見つけられなかったのがエッセイの中に何回も登場する「光林寺坂」でした。
地図上にも現地の標識にも、それらしきものは見当たりません。麻布本村町と古川にかかる五之橋をつなぐ坂と言ったら新坂だけです。
ううむ、もしかして、もしかすると・・・
こんな時は地元のお年寄りに訊ねるのが一番なのだけどなぁ・・・
と、あれこれ考えながら横道に入ってみると、ちょうど目の前を老婦人が歩いていました。
よし!思い切って声をかけてみよう!
すると、ああ、やっぱり!
地元の人は、その坂道を「新坂」とも「光林寺坂」とも呼んでいることが、いとも簡単に解りました。
品のいい普段使いの毛皮のコートを纏ったそのご婦人は、もう麻布本村町に住んで50年以上になるのだけど、最近、随分とこの辺りも変わったものだと眺めながら久しぶりの散歩をしていたのよと、懐かしそうに昔の街の様子を聞かせてくださいました。

Azabu02女性にお礼を言い、謎が解けスッキリした気分で光林寺坂を下りきると、古川にかかる「五之橋」が首都高の影に隠れるようにありました。
この辺りには小さな町工場が軒を連ねていたそうで、学校からの帰り道、機械から削り出される金属のクズや雲母のかけらを拾ったエピソードがエッセイの中にも綴られています。
そう言えば、お小遣いを貯めて花束を作ってもらった花屋の「花よし」さんが、この小さな橋のたもとにあったはずですが、首都高建設時にでも立ち退きを迫られたのでしょうか、残念ながら見つけることはできませんでした。

Azabu01五之橋を渡り商店街を抜け、一旦、道を左に折れ、更に三光坂下から大きなお屋敷のつづく三光坂を上って行くと、坂の上の右手に並木道が現れました。その坂道を下った先にユニークなデザインの聖心女子学院の正門が見えたのでした。
屋根のついたアーチ型の門は広島の原爆ドームを設計したチェコ人ヤン・レツルが1909年(明治42年)に作ったものだそうです。
間違いなく須賀さんもくぐった門です。

南麻布から白金まで坂道を上ったり下ったり、小学生の女の子の足では片道30分位はかかったであろう通学路を辿り、関西から東京へ引っ越して来て、なかなか新しい学校にも、庭の狭い古くさい家にも馴染めなかった少女時代の須賀さんに思いを馳せながら、私の小さな旅も終わりました。

おまけを一つ。
この日、広尾駅の近くに赤いドアの可愛いお店を発見♪
何と!それは少女だった頃の須賀さんも夢中になった『少女の友』や『ひまわり』『それいゆ』など美しい挿絵の少女向け雑誌で知られている中原淳一さん(1913〜1983)のショップだったのです。
夢いっぱいの小物から復刻版の雑誌まで多彩な品揃えに、私も思わず財布の紐が緩んでしまいました。

中原淳一公式ホームページ

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19 January 2009

「イタリアへ 須賀敦子 静かなる魂の旅 最終話"ローマからナポリの果てに"」 

今日1月19日は、須賀さんの80回目のお誕生日。

なかなか纏まった時間がとれずHDDに入れっぱなしになっていた「イタリアへ 須賀敦子 静かなる魂の旅 最終話"ローマからナポリの果てに"」(BS朝日)をやっと見ることができました。

第1話"トリエステの坂道"や、第2話"アッシジのほとりに"に比べると、総括的で、掘り下げが浅く、物足りなさを感じてしまったのは、私が、つい最近まで『考える人』の特集を読んでいたせいもあるのかなぁ・・・

須賀さんの作品の朗読と、それに重ねられた美しい映像は、ちょうど人の歩く速さに合わせたようなゆったりとしたテンポで進み、慌しい日常から、しばし離れることはできたけれど、「やっぱり、須賀さんの作品を読まずして、須賀さんの本当の魅力は解らないよな・・・」と、逆に、改めて強く感じさせられました。

一昨日、従姉妹が須賀さんと同じ病気で他界しました。
病気がみつかって、手術もしたのに、わずか7カ月で天に召されてしまいました・・・
儚い命・・・

丁寧に生きよう。
今この瞬間瞬間を大切にしよう。

関連エントリ「イタリアへ 須賀敦子 静かなる魂の旅 第2話"アッシジのほとりに"」

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14 January 2009

考える人2009年冬号「特集 書かれなかった須賀敦子の本」

Kangaeru_hito昨年の秋に刊行された『芸術新潮10月号』に「特集 没後10年 須賀敦子が愛したもの」が組まれたのは、まだ記憶に新しいところなのだけど、現在、本屋さんの店頭に並んでいる季刊誌『考える人2009年冬号』も、なんとなんと、須賀さんの特集「書かれなかった須賀敦子の本」なのです♪

須賀さん自身が紡ぎ出す美しい文章が新たに生まれてくることは、もう、決して無いのよねと、同じ本を何度も繰り返しめくっている私は、須賀さんに関する新しい読み物が出たと知れば、たとえそれが須賀さん本人の文章でなかろうと、たとえ「むむ?これって出版社の思う壷よね!」と解っていようとも、とにかく読みたくて居ても立ってもいられなくなってしまうのです。

という訳で、もちろん今回もシッカリ入手しました♪

「書かれなかった須賀敦子の本」と来れば、それが、テオ・アンゲロプロス監督の映画《ユリシーズの瞳》に触発された晩年の須賀さんが、アルザスまで取材に出かけ構想を練っていたものの、病気のために創作ノートと草稿を残すのみで完成させられなかった長篇の物語『アルザスの曲がりくねった道』を指していることは、全集を読んでいる人なら、すぐ解ることなのだけど、おっちょこちょいで慌て者の私ときたら、その全集に収録されている未定稿とは別のものが近ごろ新発見でもされ、今回、発表されるのかも!?なあんて勝手に思い込んでいたのでした。

結局、雑誌に掲載されたのは既に全集に収録されている序章(未定稿)と創作ノートでした。
須賀さんのアルザス取材旅行に同行した新潮社の編集者 鈴木力さんの談話からは、三人称で書くか一人称で書くか?長篇ではなく短篇連作で書こうか?など色々と悩んでいた頃に書いた複数の草稿が存在していたことが伺え、そのうちの幾つかでも目にすることが出来たら嬉しかったなぁと、ちょっぴり残念でした。

でも、その鈴木力さんに宛てた手紙の写真から須賀さんの直筆文字を見る機会が得られ(芸術新潮に掲載されていたイタリア語の絵本にふられた日本語訳も丁寧で美しい筆跡でしたが、手紙の文字も親しみの持てる筆致でした。)、「エマウスの家」での須賀さんの活動や信仰のことについて書かれた湯川豊さんの記事や、須賀さんやご両親の素顔を語った妹・北村良子さんのロング・インタビューなど読み応えタップリの内容には大満足です。

また、巻末にはペッピーノの書いた"Atsuko"で始まる小さな詩が紹介されていて、須賀さんの眼差し、そして、それを見つめるペッピーノの眼差し、どちらも何てステキなんだろうって思いました♪

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27 September 2008

芸術新潮10月号「特集 没後10年 須賀敦子が愛したもの」 

Geijutsu_shincho10久しぶりに『芸術新潮』の最新号を購入しました。
前回買ったのは、確かエルンスト・バルラハの小特集が組まれた時だから、かれこれ2年半ぶりになるかな?

今月初め、うたたねねこさんのブログ「本を読みながら」で10月号の特集が「没後10年 須賀敦子が愛したもの」だと知り、発売日を指折り数えて待っていたのでした。

本屋さんの店頭では1ページたりとも中を見ずに超特急で家に持ち帰り、部屋に入って静かに開いてみると、須賀さんにゆかりあるイタリアの美しい写真や、須賀さんが著書の中で触れている美術作品の写真が満載されていました。

と、ここまでは予想通り。

更に嬉しかったのは、一昨年、大阪神戸を訪ねた時、余裕があったら歩いてみたいと思いながら叶わなかった阪急今津線沿線の小林聖心女学院近くの坂道が見られたこと。
また、かれこれ10年位前に船を乗り継いで渡ったヴェネツィア・トルチェッロ島で観た聖マリア・アッスンタ大聖堂ドームのモザイク画 聖母子像が掲載されていたのにも感激しました。

そして、先月、庭園美術館で観た 舟越桂さんの作品集に寄稿されたエッセイ(全集へは未収録)も初めて読むことができ、須賀さんと舟越さんとの接点も知ることができました。

他にも、これまで知りえなかった須賀さんの意外な一面に触れた文章や写真も寄せられているので、しばらく枕元に置いて、ゆっくり楽しもうと思います。

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16 March 2008

風信子忌

今年3月20日は、須賀敦子さんが亡くなられてちょうど10年目にあたる。

今日、ふと庭に目をやると、数日前まで蕾だった白とむらさきのヒヤシンスが、暖かな日差しをうけて咲いていた。
そうかぁ、須賀さんはヒヤシンスの花咲く頃、天に召されたのかぁ・・・

むらさき色のヒヤシンスと言えば須賀さん、須賀さんと花と言えば、やっぱりヒヤシンス。
そうだ! 太宰治の桜桃忌、与謝野晶子の白桜忌、芥川龍之介の河童忌なんかの真似をして、須賀さんの命日は「風信子(ヒヤシンス)忌」なんてどうだろう。
【注】 詩人で建築家の立原道造さんの命日3月29日が「風信子忌」とされているそうです。(27Mar2008追記)

私は夙川のお墓までゆくことが出来ないけれど、ヒヤシンスを摘んできてコップにさし、どれかとっておきの須賀さんの作品を一編選び、ゆっくりと読みながら、須賀さんを偲ぼうと思う。

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04 February 2008

「異才伝」須賀敦子 その4

「異才伝」 I remember 須賀敦子 その4
「朝日新聞(夕刊)」2007年1月26日(金)より転載

■活動の場、10年ごとに変える  松山 巌

 須賀さんの文学活動をどうとらえるか。僕も含め、たぶん多くの人は61歳のデビュー作「ミラノ 霧の風景」以降しか知らない。でも、彼女の作家性の起点はそのはるか以前にあった。遺作を編み年譜をつくる中で実感したのはそのことです。

   ◇  ◇  ◇

 会えば酒を飲み冗談をいいあう友人ではあったけれど、とうとうと自分を語る人じゃなかったから須賀敦子という人がどういう人生を生きてきたかってことは僕にとっても謎だった。
 勘なんだけど、彼女はほぼ10年ごとに自分の位置を変えている。ひめゆり部隊は同世代だといっていた。戦後いち早く読んだヨーロッパの抵抗文学への関心が引き金になったのか、渡仏してカトリック左派と呼ばれる信仰者の存在を知る。30代を過ごしたイタリアでは、元パルチザンや労働歌を歌い教会に忌避されるような神父と出会う。ミッションスクールで育った彼女にとっては異端者だったろう。でも彼らにとけ込んでいく。
 何げない言葉に、えっ?と思うことがよくあった。イタリア戦後文学の潮流をつくった文学史上の作家との交流をさらっと話す。谷崎、鏡花、石川淳なんかが大好きで、ものすごく詳しかった。ミラノ時代、彼女はイタリア語訳の近現代日本文学選集を出しているのです。

   ◇  ◇  ◇

 クズ屋だったの、なんていうことがあった。また、えっ?と思う。帰国後の一時期、須賀さんは廃品回収の収益を慈善にあてるエマウス運動に没頭した。やがて大学の教壇にたちギンズブルグなどを訳して翻訳家として世に出る。そしてイタリアの日々の記憶をエッセーに紡ぎ始めるのだけれど、日本人が喪失した友情とか謙譲ということに思いを誘うあの一連の作品は彼女の現代批判だったと思う。
 60代で書く人としてのポジションを固めた彼女は、次の段階を準備していた。あるフランス人修道女を主人公にした小説の未定稿を残してます。自身の半生を重ねながら"信仰に生きるとはどういうことか"という彼女の背骨であったはずの問いを託そうとしたのだと思う。仮題がありました--。「アルザスの曲がりくねった道」(談)


松山 巌(まつやま いわお)
45年、東京生まれ。東京芸大卒。評論家、作家。『闇のなかの石』『群衆』『世紀末の一年』など著書多数。「須賀敦子全集」(河出書房新社、全8巻)」編集委員。


「異才伝」須賀敦子 その1
「異才伝」須賀敦子 その2
「異才伝」須賀敦子 その3

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03 February 2008

「異才伝」須賀敦子 その3

「異才伝」 I remember 須賀敦子 その3
「朝日新聞(夕刊)」2007年1月19日(金)より転載

■あどけなさ見せたミラノの日々  山縣 壽夫

 69年夏、ローマ。初対面でうち解けて、以来僕らはのべつといっていいほど始終、行動を共にすることになる。同じミラノの至近距離に住むご近所だった。来ない? 食事しない?
 誘い合って、昨日も今日も会って話をした。
 まだ足りなくて次の日も。何をそんなにしゃべったものか・・・・・。不思議に内容を覚えていないのです。なんとなしの会話。それが愉しくてつきなかった。

   ◇  ◇  ◇

 我々は貧乏彫刻家であり、画家であり、須賀さんはご主人に先立たれて日本文学をイタリア語訳する仕事をしながらつつましく自活していた。お互いお金はなかった。そのかわり時間だけは、ふんだんにあった。
 あどけないところをもち続けた人だったと思う。うちに、自作の鉄板をはめこんだお好み焼きが出来る食卓があったのだが、須賀さんは、だいじょうぶ? なんていいながら、その下にもぐりこんで据え付けコンロを点検する。興味津々のこどもみたいだった。
 いたずらもした。知り合いの紹介で一面識もない日本人をミラノの空港に出迎えることになったとき、須賀さんが、一芝居うとう、という。僕にふられた役はミラノ縞なんて、ありもしない模様の研究家で彼女はマネージャー役。真に受けた客人相手に僕は立ち往生したけれど、彼女は堂々と演じてましたね。
 川遊びにいって須賀さんが水に落ちたことがあった。ぬれたズボンを、車のトランクのふたにかけて乾かしたんだけれど帰るだんになって忘れて発進。後ろからクラクションが鳴る。振り返ると須賀さんのズボンが幟旗みたいに風に踊っていた。

  ◇  ◇  ◇

 71年に須賀さんは帰国した。ミラノが創造の現場だ、と心に決めた僕らにも異邦人の思いはつきまとった。根無し草になる不安を抱えていた。あのとき須賀さんも、やはり自分の根っこは日本だと決断したのか、どうか。深く問うことなく僕らは別れたけれど、ああ帰ってしまうんだ、と。すごく寂しかった。
 日本でも前みたいに話そうよ、といってたんです。でも、なぜだろう、予定があわない。不自由だった。あんなにいっぱいあった若かった日の"時間"を、僕らは失った。(談)


山縣 壽夫(やまがた ひさお)
32年、奈良県生まれ。彫刻家。元武蔵野美大教授。「横たわる三角」(平櫛田中賞)など作品多数。62〜76年、妻の画家・塩川慧子さんとともにイタリアで活動。


「異才伝」須賀敦子 その1
「異才伝」須賀敦子 その2
「異才伝」須賀敦子 その4

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21 January 2008

「異才伝」須賀敦子 その2

「異才伝」 I remember 須賀敦子 その2
「朝日新聞(夕刊)」2007年1月12日(金)より転載

■行動力旺盛 最高の理解者は父  北村 良子

 「誰も敦子の意志を変える事は出来ない」。子供の頃からの好奇心の強さと行動力。これが家族の暗黙の認識だった。

   ◇  ◇  ◇

 「パパそっくり」と母は言ったが、性格の似た者同士は姉が大人になるまで事あるごとに衝突した。例えば戦後の混乱期、休暇を終えて東京の寄宿舎に戻る娘の汽車の切符を父は親心から手配してしまう。券を渡され姉は「友達は皆大阪駅で長時間並んで買うのに。特別はいやっ」と怒った。晩年の姉の静かな文章からは想像もつかないだろうけれど。
 普段の姉は明るくユーモアに富み、話し上手。そして家族ばかりではなく周囲に気を配る、思いやりの深い人だった。
 53年に慶応の大学院からフランスに留学、帰国後、またイタリアに。これを父が許したのは、父が積極的に設定した見合いをまったく無視され、さすがの父も「この娘はとても自分の思い通りにはならぬ」と悟ったか、姉に過去の自分が果たし得なかった夢を託そうとしたのかも知れないと思う。
 イタリアで出会ったペッピーノとの結婚の許可を求める手紙が両親の下に届き、彼らの反対にも拘わらず間もなく二人の結婚式の報告と写真が送られて来た。1カ月ほどして二人揃って日本を訪れたが、姉が確信していた通り穏やかで知的な彼を一目見て父は悦んで受け入れた。
 たった6年を経て病で彼を失い、傷心のうちに帰国した姉だったが、続いて祖母、父、そして母を亡くした。私は息をつめて姉を見ていたけれど、持ち前の行動力で人生を切り開いていった。姉はずっと父を最高の理解者だと思っていたと思う。

   ◇  ◇  ◇

 97年から98年にかけ姉が癌と闘っていた頃、私の夫も病床にあり、始終私が姉に付き添う事が叶わず不安な思いをさせた。でも見舞うと気分のいい日は子供の頃の話を楽しそうにした。
 小学生の頃、夜各自のベッドにはいってから好きな本を読む事が最高に楽しい時間だった。ある時、病室で姉はふっと言った。「グリムの中で自分の妙な名をあてさせる小人の話、覚えてる?」。即座に私が「ルンペルシティルツヒェン!」。姉は手を打って大喜び。あれも父が贈ってくれた本だった。(寄稿)


北村 良子(きたむら りょうこ)
30年、須賀豊治郎・万寿の次女として生まれる。姉敦子とは1歳違い。兵庫県宝塚市の小林聖心女子学院専門部英文科卒。53年、建築家北村隆夫(故人)と結婚。現在同県西宮市在住。


「異才伝」須賀敦子 その1
「異才伝」須賀敦子 その3
「異才伝」須賀敦子 その4

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20 January 2008

「異才伝」須賀敦子 その1

昨年1月、須賀敦子さんに縁ある方々によって「朝日新聞」に4回にわたって掲載されたコラムを、つい最近やっと手に入れ読むことができたので、ここにも記録します。


「異才伝」 I remember 須賀敦子 その1
「朝日新聞(夕刊)」2007年1月5日(金)より転載

■国家対立下の人間凝視に共感  重延 浩

 "イタリア"で番組を作らないかと打診された時、僕は迷わず作家須賀敦子の心象風景としてのイタリアを撮りたい、と答えた。しかも1年ごとに一作ずつ3回のべ6時間ぐらいの作品にしたい。そんなわがままな企画が通ったのです。

  ◇  ◇  ◇

 美術を中心にイタリアはずっと仕事の柱となってきた。須賀さんが書かれた「トリエステの坂道」「コルシア書店の仲間たち」も、参考書として何年も前から手元にあった。でも実はちゃんと読んでいなかった。紀行ものだと思いこみ、歴史や美術書の後になっていたのです。
 それが04年かな、ゲーテのイタリア紀行を辿る番組を作っていたころ、たまたま「ミラノ霧の風景」を開いて、あれ!と思った。これは紀行じゃない、不思議な心象風景だ、と。
 やがて、ディレクター的にいえば須賀さんのドラマツルギーが見えてきた。一見、断章をつないだ感だが、それこそが彼女の術。テーマの部分を、ほの見せておいて通読した時、全体が見渡せる仕掛けにはまった。
 須賀さんはお嬢様育ちなんだけど、50年代にパリ、ローマに留学し、カトリック左派の人々が集い、社会・文化運動の場となったミラノ・コルシア書店へ参画した。イタリア人男性との結婚、死別といい、帰国した後、大学で教え、60歳を超えてから作品を次々と発表した人生といい、自分で道を切り開いて存分に生きたひとです。

  ◇  ◇  ◇

 私は樺太からの引き揚げ者で、戦争を見たたぶん最後の世代。一連の作品を通じて国家間の歴史的ないさかいや分断の中での人間を凝視する須賀さんの目に共感した。好奇心のかたまりのようなあのひとを勝手に自分と重ねた。面識はありません。でも今回の取材で、コルシア書店やユダヤ人ゲットー、娼婦のための病院、教会、運河の水音、風の気配・・・・、彼女が描いた場所に身を置き須賀さんと交信できたと感じてます。
 とにかく3年かけて僕は須賀さんが最後に行きたかったところにいきたい。「イタリアへ」が番組タイトルだが、フランスのアルザスが、その場所では?という予感もある。あの人はひとをぐいぐいと引っ張っていく。悪い人ですね。(談)


重延 浩(しげのぶ ゆたか)
41年、旧樺太生まれ。番組制作会社「テレビマンユニオン」会長。ドキュメンタリーを数多く手がけ、昨年からシリーズ「イタリアへ 須賀敦子 静かなる魂の旅」(BS朝日)を制作。


「異才伝」須賀敦子 その2
「異才伝」須賀敦子 その3
「異才伝」須賀敦子 その4

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16 November 2007

「イタリアへ 須賀敦子 静かなる魂の旅 第2話"アッシジのほとりに"」 

11月18日(日)20:00~21:55、BS朝日で「イタリアへ 須賀敦子 静かなる魂の旅」 第2話"アッシジのほとりに"が放送されるそうです。

昨年、放送された第1話"トリエステの坂道"は、須賀さんにゆかりのある場所や美しい街並みの映像がふんだんに使われ、ふんわりと静かな時間が流れてゆくような作りで、NHKなどでよくあるドキュメンタリー番組や海外からの中継番組とは全く違った趣があり、「へぇ~民放でもこういう番組をつくるんだぁ」と新鮮に感じた覚えがあります。

私が、ジョットのフレスコ壁画《聖フランチェスコ伝》を見たくてアッシジを訪ねたのは、イタリア中部を襲ったウンブリア・マルケ地震よりも前のことだから、もうかれこれ10年以上も前のことになるのだけれど、その壁画や聖フランチェスコ大聖堂の佇まいにも、すごく感動したのは勿論、丘の上に築かれた小さなアッシジの街の細い坂道を登ったり下ったりしながら「こんな場所に生まれ育ったら、同じ人間でも、随分と違った人生を歩むことになるのじゃないかなぁ・・・ 住んでみたいなぁ・・・」と思うほど惹きつけられる美しい街でした。
第2話では、そのアッシジの街が主な舞台になるのかな?

アッシジは、須賀さんが8回も訪れた特別な場所。
明後日、放映される番組の前に、ペッピーノへの書簡も含め、須賀さんがアッシジについて書いた文章のいくつかを、もう一度、読み返してみようと思う。

関連エントリ「イタリアへ 須賀敦子 静かなる魂の旅 最終話"ローマからナポリの果てに"」 

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