16 March 2008

風信子忌

今年3月20日は、須賀敦子さんが亡くなられてちょうど10年目にあたる。

今日、ふと庭に目をやると、数日前まで蕾だった白とむらさきのヒヤシンスが、暖かな日差しをうけて咲いていた。
そうかぁ、須賀さんはヒヤシンスの花咲く頃、天に召されたのかぁ・・・

むらさき色のヒヤシンスと言えば須賀さん、須賀さんと花と言えば、やっぱりヒヤシンス。
そうだ! 太宰治の桜桃忌、与謝野晶子の白桜忌、芥川龍之介の河童忌なんかの真似をして、須賀さんの命日は「風信子(ヒヤシンス)忌」なんてどうだろう。
【注】 詩人で建築家の立原道造さんの命日3月29日が「風信子忌」とされているそうです。(27Mar2008追記)

私は夙川のお墓までゆくことが出来ないけれど、ヒヤシンスを摘んできてコップにさし、どれかとっておきの須賀さんの作品を一遍選び、ゆっくりと読みながら、須賀さんを偲ぼうと思う。

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04 February 2008

「異才伝」須賀敦子 その4

「異才伝」 I remember 須賀敦子 その4
「朝日新聞(夕刊)」2007年1月26日(金)より転載

■活動の場、10年ごとに変える  松山 巌

 須賀さんの文学活動をどうとらえるか。僕も含め、たぶん多くの人は61歳のデビュー作「ミラノ 霧の風景」以降しか知らない。でも、彼女の作家性の起点はそのはるか以前にあった。遺作を編み年譜をつくる中で実感したのはそのことです。

   ◇  ◇  ◇

 会えば酒を飲み冗談をいいあう友人ではあったけれど、とうとうと自分を語る人じゃなかったから須賀敦子という人がどういう人生を生きてきたかってことは僕にとっても謎だった。
 勘なんだけど、彼女はほぼ10年ごとに自分の位置を変えている。ひめゆり部隊は同世代だといっていた。戦後いち早く読んだヨーロッパの抵抗文学への関心が引き金になったのか、渡仏してカトリック左派と呼ばれる信仰者の存在を知る。30代を過ごしたイタリアでは、元パルチザンや労働歌を歌い教会に忌避されるような神父と出会う。ミッションスクールで育った彼女にとっては異端者だったろう。でも彼らにとけ込んでいく。
 何げない言葉に、えっ?と思うことがよくあった。イタリア戦後文学の潮流をつくった文学史上の作家との交流をさらっと話す。谷崎、鏡花、石川淳なんかが大好きで、ものすごく詳しかった。ミラノ時代、彼女はイタリア語訳の近現代日本文学選集を出しているのです。

   ◇  ◇  ◇

 クズ屋だったの、なんていうことがあった。また、えっ?と思う。帰国後の一時期、須賀さんは廃品回収の収益を慈善にあてるエマウス運動に没頭した。やがて大学の教壇にたちギンズブルグなどを訳して翻訳家として世に出る。そしてイタリアの日々の記憶をエッセーに紡ぎ始めるのだけれど、日本人が喪失した友情とか謙譲ということに思いを誘うあの一連の作品は彼女の現代批判だったと思う。
 60代で書く人としてのポジションを固めた彼女は、次の段階を準備していた。あるフランス人修道女を主人公にした小説の未定稿を残してます。自身の半生を重ねながら"信仰に生きるとはどういうことか"という彼女の背骨であったはずの問いを託そうとしたのだと思う。仮題がありました--。「アルザスの曲がりくねった道」(談)


松山 巌(まつやま いわお)
45年、東京生まれ。東京芸大卒。評論家、作家。『闇のなかの石』『群衆』『世紀末の一年』など著書多数。「須賀敦子全集」(河出書房新社、全8巻)」編集委員。


「異才伝」須賀敦子 その1
「異才伝」須賀敦子 その2
「異才伝」須賀敦子 その3

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03 February 2008

「異才伝」須賀敦子 その3

「異才伝」 I remember 須賀敦子 その3
「朝日新聞(夕刊)」2007年1月19日(金)より転載

■あどけなさ見せたミラノの日々  山縣 壽夫

 69年夏、ローマ。初対面でうち解けて、以来僕らはのべつといっていいほど始終、行動を共にすることになる。同じミラノの至近距離に住むご近所だった。来ない? 食事しない?
 誘い合って、昨日も今日も会って話をした。
 まだ足りなくて次の日も。何をそんなにしゃべったものか・・・・・。不思議に内容を覚えていないのです。なんとなしの会話。それが愉しくてつきなかった。

   ◇  ◇  ◇

 我々は貧乏彫刻家であり、画家であり、須賀さんはご主人に先立たれて日本文学をイタリア語訳する仕事をしながらつつましく自活していた。お互いお金はなかった。そのかわり時間だけは、ふんだんにあった。
 あどけないところをもち続けた人だったと思う。うちに、自作の鉄板をはめこんだお好み焼きが出来る食卓があったのだが、須賀さんは、だいじょうぶ? なんていいながら、その下にもぐりこんで据え付けコンロを点検する。興味津々のこどもみたいだった。
 いたずらもした。知り合いの紹介で一面識もない日本人をミラノの空港に出迎えることになったとき、須賀さんが、一芝居うとう、という。僕にふられた役はミラノ縞なんて、ありもしない模様の研究家で彼女はマネージャー役。真に受けた客人相手に僕は立ち往生したけれど、彼女は堂々と演じてましたね。
 川遊びにいって須賀さんが水に落ちたことがあった。ぬれたズボンを、車のトランクのふたにかけて乾かしたんだけれど帰るだんになって忘れて発進。後ろからクラクションが鳴る。振り返ると須賀さんの須賀さんのズボンが幟旗みたいに風に踊っていた。

  ◇  ◇  ◇

 71年に須賀さんは帰国した。ミラノが創造の現場だ、と心に決めた僕らにも異邦人の思いはつきまとった。根無し草になる不安を抱えていた。あのとき須賀さんも、やはり自分の根っこは日本だと決断したのか、どうか。深く問うことなく僕らは別れたけれど、ああ帰ってしまうんだ、と。すごく寂しかった。
 日本でも前みたいに話そうよ、といってたんです。でも、なぜだろう、予定があわない。不自由だった。あんなにいっぱいあった若かった日の"時間"を、僕らは失った。(談)


山縣 壽夫(やまがた ひさお)
32年、奈良県生まれ。彫刻家。元武蔵野美大教授。「横たわる三角」(平櫛田中賞)など作品多数。62〜76年、妻の画家・塩川慧子さんとともにイタリアで活動。


「異才伝」須賀敦子 その1
「異才伝」須賀敦子 その2
「異才伝」須賀敦子 その4

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21 January 2008

「異才伝」須賀敦子 その2

「異才伝」 I remember 須賀敦子 その2
「朝日新聞(夕刊)」2007年1月12日(金)より転載

■行動力旺盛 最高の理解者は父  北村 良子

 「誰も敦子の意志を変える事は出来ない」。子供の頃からの好奇心の強さと行動力。これが家族の暗黙の認識だった。

   ◇  ◇  ◇

 「パパそっくり」と母は言ったが、性格の似た者同士は姉が大人になるまで事あるごとに衝突した。例えば戦後の混乱期、休暇を終えて東京の寄宿舎に戻る娘の汽車の切符を父は親心から手配してしまう。券を渡され姉は「友達は皆大阪駅で長時間並んで買うのに。特別はいやっ」と怒った。晩年の姉の静かな文章からは想像もつかないだろうけれど。
 普段の姉は明るくユーモアに富み、話し上手。そして家族ばかりではなく周囲に気を配る、思いやりの深い人だった。
 53年に慶応の大学院からフランスに留学、帰国後、またイタリアに。これを父が許したのは、父が積極的に設定した見合いをまったく無視され、さすがの父も「この娘はとても自分の思い通りにはならぬ」と悟ったか、姉に過去の自分が果たし得なかった夢を託そうとしたのかも知れないと思う。
 イタリアで出会ったペッピーノとの結婚の許可を求める手紙が両親の下に届き、彼らの反対にも拘わらず間もなく二人の結婚式の報告と写真が送られて来た。1カ月ほどして二人揃って日本を訪れたが、姉が確信していた通り穏やかで知的な彼を一目見て父は悦んで受け入れた。
 たった6年を経て病で彼を失い、傷心のうちに帰国した姉だったが、続いて祖母、父、そして母を亡くした。私は息をつめて姉を見ていたけれど、持ち前の行動力で人生を切り開いていった。姉はずっと父を最高の理解者だと思っていたと思う。

   ◇  ◇  ◇

 97年から98年にかけ姉が癌と闘っていた頃、私の夫も病床にあり、始終私が姉に付き添う事が叶わず不安な思いをさせた。でも見舞うと気分のいい日は子供の頃の話を楽しそうにした。
 小学生の頃、夜各自のベッドにはいってから好きな本を読む事が最高に楽しい時間だった。ある時、病室で姉はふっと言った。「グリムの中で自分の妙な名をあてさせる小人の話、覚えてる?」。即座に私が「ルンペルシティルツヒェン!」。姉は手を打って大喜び。あれも父が贈ってくれた本だった。(寄稿)


北村 良子(きたむら りょうこ)
30年、須賀豊治郎・万寿の次女として生まれる。姉敦子とは1歳違い。兵庫県宝塚市の小林聖心女子学院専門部英文科卒。53年、建築家北村隆夫(故人)と結婚。現在同県西宮市在住。


「異才伝」須賀敦子 その1
「異才伝」須賀敦子 その3
「異才伝」須賀敦子 その4

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20 January 2008

「異才伝」須賀敦子 その1

昨年1月、須賀敦子さんに縁ある方々によって「朝日新聞」に4回にわたって掲載されたコラムを、つい最近やっと手に入れ読むことができたので、ここにも記録します。


「異才伝」 I remember 須賀敦子 その1
「朝日新聞(夕刊)」2007年1月5日(金)より転載

■国家対立下の人間凝視に共感  重延 浩

 "イタリア"で番組を作らないかと打診された時、僕は迷わず作家須賀敦子の心象風景としてのイタリアを撮りたい、と答えた。しかも1年ごとに一作ずつ3回のべ6時間ぐらいの作品にしたい。そんなわがままな企画が通ったのです。

  ◇  ◇  ◇

 美術を中心にイタリアはずっと仕事の柱となってきた。須賀さんが書かれた「トリエステの坂道」「コルシア書店の仲間たち」も、参考書として何年も前から手元にあった。でも実はちゃんと読んでいなかった。紀行ものだと思いこみ、歴史や美術書の後になっていたのです。
 それが04年かな、ゲーテのイタリア紀行を辿る番組を作っていたころ、たまたま「ミラノ霧の風景」を開いて、あれ!と思った。これは紀行じゃない、不思議な心象風景だ、と。
 やがて、ディレクター的にいえば須賀さんのドラマツルギーが見えてきた。一見、断章をつないだ感だが、それこそが彼女の術。テーマの部分を、ほの見せておいて通読した時、全体が見渡せる仕掛けにはまった。
 須賀さんはお嬢様育ちなんだけど、50年代にパリ、ローマに留学し、カトリック左派の人々が集い、社会・文化運動の場となったミラノ・コルシア書店へ参画した。イタリア人男性との結婚、死別といい、帰国した後、大学で教え、60歳を超えてから作品を次々と発表した人生といい、自分で道を切り開いて存分に生きたひとです。

  ◇  ◇  ◇

 私は樺太からの引き揚げ者で、戦争を見たたぶん最後の世代。一連の作品を通じて国家間の歴史的ないさかいや分断の中での人間を凝視する須賀さんの目に共感した。好奇心のかたまりのようなあのひとを勝手に自分と重ねた。面識はありません。でも今回の取材で、コルシア書店やユダヤ人ゲットー、娼婦のための病院、教会、運河の水音、風の気配・・・・、彼女が描いた場所に身を置き須賀さんと交信できたと感じてます。
 とにかく3年かけて僕は須賀さんが最後に行きたかったところにいきたい。「イタリアへ」が番組タイトルだが、フランスのアルザスが、その場所では?という予感もある。あの人はひとをぐいぐいと引っ張っていく。悪い人ですね。(談)


重延 浩(しげのぶ ゆたか)
41年、旧樺太生まれ。番組制作会社「テレビマンユニオン」会長。ドキュメンタリーを数多く手がけ、昨年からシリーズ「イタリアへ 須賀敦子 静かなる魂の旅」(BS朝日)を制作。


「異才伝」須賀敦子 その2
「異才伝」須賀敦子 その3
「異才伝」須賀敦子 その4

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16 November 2007

「イタリアへ 須賀敦子 静かなる魂の旅 第2話"アッシジのほとりに"」 

11月18日(日)20:00~21:55、BS朝日で「イタリアへ 須賀敦子 静かなる魂の旅」 第2話"アッシジのほとりに"が放送されるそうです。

昨年、放送された第1話"トリエステの坂道"は、須賀さんにゆかりのある場所や美しい街並みの映像がふんだんに使われ、ふんわりと静かな時間が流れてゆくような作りで、NHKなどでよくあるドキュメンタリー番組や海外からの中継番組とは全く違った趣があり、「へぇ~民放でもこういう番組をつくるんだぁ」と新鮮に感じた覚えがあります。

私が、ジョットのフレスコ壁画《聖フランチェスコ伝》を見たくてアッシジを訪ねたのは、イタリア中部を襲ったウンブリア・マルケ地震よりも前のことだから、もうかれこれ10年以上も前のことになるのだけれど、その壁画や聖フランチェスコ大聖堂の佇まいにも、すごく感動したのは勿論、丘の上に築かれた小さなアッシジの街の細い坂道を登ったり下ったりしながら「こんな場所に生まれ育ったら、同じ人間でも、随分と違った人生を歩むことになるのじゃないかなぁ・・・ 住んでみたいなぁ・・・」と思うほど引きつけられる美しい街でした。
第2話では、そのアッシジの街が主な舞台になるのかな?

アッシジは、須賀さんが8回も訪れた特別な場所。
明後日、放映される番組の前に、ペッピーノへの書簡も含め、須賀さんがアッシジについて書いた文章のいくつかを、もう一度、読み返してみようと思う。

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03 October 2007

須賀敦子さんと夙川

Syukugawa須賀さんの著書の中に、よく"夙川"という地名が登場します。

"しゅくがわ"

私にとって耳慣れない名前の町は、関西地方のどこかにあるに違いなさそうだけれど一体どの辺りにあるのか皆目見当もつかなければ、具体的に調べて確かめてみる熱心さもなく、ずっと長いこと、そのままになっていました。

うすぼんやり解っていたのは、須賀さんが父親の転勤にともなって東京の麻布へ移る前の幼少時代の数年間と、戦争中、疎開で戻っていた十代の頃の数年間を過ごした実家があるということだけ。

その"夙川"が、実は町の名前ではなく六甲山から西宮市を通って大阪湾に注ぎこむ川の名前であり、その川べりにある阪急神戸線の駅名の一つだということが解ったのは、神戸・大阪を旅行すると決め、何とはなしに地図を眺めていた時でした。

確か、須賀さんの実家は夙川駅を中心に広がるお屋敷町の一つ西宮市殿山町だったはず。
その実家を"西宮"の家とか"殿山町"の家とは呼ばずに"夙川"の家と、しばしば表現したのは、この辺りに住む人々にとって共通のものなのか、それとも須賀さんやその家族など身近な人々だけに通じるものだったのか、土地に不案内な私には、よく解らないことなのだけれど、川や駅の周辺に"夙川"と冠した学校や教会や公園があることから想像できたのは、"夙川"とは、川そのものだけでなく、その辺り一帯を指すこともありそうだということでした。

そして、何だか急に、主目的だった神戸と大阪を差し置いてでも"夙川"を訪ねてみたくて居ても立ってもいられなくなったのでした。

三宮から阪急電車にゆられること十数分、芦屋川の駅を出ると次はいよいよ夙川駅です。
そろそろ車窓から須賀さんも通っていたカトリック夙川教会の尖塔が見えるはず。
見逃してなるものかぁ〜!
あっ! あれだ!
線路際まで迫った家々やマンションの合い間に、一瞬だったけれど鋭く尖がった塔が見えた時、何を期待している訳でもないのに私の胸はドキドキと高鳴ったのでした。(^^)

Syukugawa02夙川の駅は、住宅街に位置する私鉄の駅らしい、こじんまりと落ち着いた雰囲気でした。
ホームから夙川の流れを見ることもでき、その川岸を覆う緑豊かな並木は桜のようです。
花の季節はキレイなんだろうなぁ〜

おっ!? 駅構内に「成城石井」がある。東京のスーパーマーケットがこんなとこまで進出しちゃって〜
あ、そんなことは、どうでもいいですね。(^^;

さて、さっそく駅から町へ出て、まずは車窓から尖塔を見たカトリック夙川教会へ向かってみました。

この日も関西はメチャクチャ暑く、ふうふう言いながら見当をつけた方向に歩いて行くこと数分、突然、明るいバラ色のとても美しい教会が真っ青な空の下にスックと現れました。

外観を見られれば、もうそれで充分と思って訪ねたのですが、よく見ると聖堂の扉が大きく開け放してあります。
旅行中訪ねた他の教会の殆どが扉を固く閉ざしていたのとは何だか対照的。思わず嬉しくなって、誰もいないシンと静まった聖堂の中へも入らせていただきました。

《十字架の道行》がステンドグラスの窓と窓の間の壁に飾られていたので、リストの《十字架の道行》を思い出しながら拝見し、お祈りにいらした方の邪魔をしないように、少しだけ写真も撮らせていただきました。

●フォト・アルバム カトリック夙川教会(西宮市)

聖堂の中で、しばらく静かな時間をすごした後、街並みを見るため少し回り道をしながら駅へ戻り、駅前のバスターミナルから阪急バスに乗って次の目的地へ向かいました。

バスは駅を出て10分くらい住宅街を走った後、樹々の茂るカーブの多い山道を更に10分ほど登ったでしょうか?
私は、たった一人、山の中のバス停に降りたちました。
目指すは「甲山墓園カトリック墓地」です。

そうなんです。
せっかく夙川まで来たんだもの。
どうしても須賀さんのお墓参りがしたかったのです。

広大な墓地の中、何のめやすもなく彷徨う訳にはいかないだろうと管理事務所に立ち寄り、管理人さんから丁寧に場所を教えていただいたお陰で、すぐに須賀さんのお墓を見つけることができました。

大きな空に抱かれた緩やかな山腹にある広々とした墓地からは、なだらかに広がる周囲の山が望め、お父さまの豊治郎さん、お母さまの万寿さん、弟の新さんとともに眠っている須賀さんも景色を楽しんでらっしゃるのではないかなと思いました。

墓石には「アンナ・マリア 須賀敦子」と洗礼名が刻まれていました。

もし、また私に、お墓参りできるチャンスがやって来たら、春なら紫色のヒヤシンスを、秋だったら紫苑の花を墓前にたむけたいな。

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10 September 2007

はじめての神戸♪

Kobe01先日、ちょっと遅めの夏休みをとり、阪神間を旅してきました。

生まれて初めて訪ねた神戸・大阪など関西の街々は、予想していた以上に快適で楽しく、見所もいっぱい。

帰宅して早々「また行きたい!」って思ったほどでした。(^^)

実は私・・・

正直に告白すると・・・

Kobe02関西では電車に乗るのに列を作らない上に割り込みも当たり前らしいし・・・
おねえさん達はギラギラ派手そうだし・・・
オバチャン達は図々しくて怖そうだし・・・

ビクビク! ドキドキ!

そうなんですぅ、あんまり良い印象を持っていなかったんです。(^^;

でも、それらは全て杞憂でした。(^^)
やっぱり、実際に自分の身体と心で感じてみなくちゃ解らないものですね。長いこと勝手な思い込みをしていた自分に反省もしたのでした。(^^;

Kobe03さて、写真は宿泊したホテルの部屋からの眺めです。
須賀敦子さんが1953年初めてのヨーロッパ留学へと旅立った神戸港と、六甲の山並みが一望でき、ちょっぴり感動。

そして、夜になると、その六甲山の山腹に神戸市のマークと錨のマークが灯る、オシャレな演出もされてました。(光が弱く私のカメラでは捉えられず、残念。)

という訳で、「大阪~神戸」超初心者の旅は始まったのでした。

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05 April 2007

サン・テグジュペリ『星の王子さま』

Le_petit_prince05昨日、ニュースを見ていて、サン・テグジュペリの『星の王子さま』の挿絵原画が、山梨県内の美術館「えほんミュージアム清里」の所蔵品の中から発見されたことを知りました。

47点あるとされている原画のうち、現在、行方がわかっているのは、今回、見つかった「実業屋」を含め、世界中で、たった6点だけなのだそう。
4月25日から松屋銀座で開かれる「サン=テグジュペリの星の王子さま展」で、公開されるとか。あぁ~行っちゃいそうな予感。(^^;


Le_petit_prince04_1ところで、幼い時に出会い、大人になっても繰り返し読みつづける本というのが誰にでもあると思うけれど、サンテックスの『星の王子さま』は、私にとって、まさにそんな一冊。

子供の頃、最初に読んだのが、あの名訳の誉れ高い、内藤濯(あろう)さんのものでした。その後、原作のフランス語版に手を出したこともあったっけな。(^^;
そして、フランスの俳優ジェラール・フィリップの朗読CDまで持っていたりします。(^^; それはまるで音楽を聴いているような美しい朗読です。

Le_petit_prince01そういえば、須賀敦子さんの著書『遠い朝の本たち』の中に「星と地球のあいだで」というエッセイがあり、フランス語を学びはじめたばかりの須賀さんと『星の王子さま』との出会いが綴られています。


   ◇   ◇   ◇


最初は、なんだか子どもの本みたいなものを、と不満だったのが、読みすすむうちに、きらめく星と砂漠の時空にひろがる広大なサンテグジュペリの世界に私たちは迷いこみ、すこしずつ、深みにはまっていった。いや、迷っていたのは、クラスで私ひとりだったかもしれない。

Le_petit_prince03それまでに読んだどんな話よりも透明な空想にいろどられていながら、人間への深い思いによって地球にしっかりとつなぎとめられたサンテグジュペリの作品は、他にも読むべき古典がたくさんあるのをながいこと私に忘れさせるほど、夢と魅惑に満ちていた。
(須賀敦子著『遠い朝の本たち』より)


  ◇  ◇  ◇


確か、ジェラール・フィリップに、とても興味を持ってらしたはずの須賀さん、この朗読の存在をご存知だったのだろうか?
そして、もしご存知で、耳にされていたとしたら、どんな感想をもたれたのか知りたかったなぁ。

Le_petit_prince02さて、『星の王子さま』は、2005年に著作権が切れたのをきっかけに、現在、さまざまな新訳が入手できるようになりました。
私も、さっそく、池澤夏樹さん、野崎歓さんの新訳を読みました。

訳者それぞれサンテックスの原作への熱い思いがあり、その解釈や言葉の使い方も、おのおの工夫がこらされ、読み比べてみるまでもなく、サンテックスが『星の王子さま』に込めた思いを、訳者を通して様々な角度から読み取ることができ面白いです。

とはいえ、この作品の一番の魅力は、どの訳であろうと、素直な気持ちが取り戻せ、自分を見つめ直せることかなぁ。(^^)

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16 January 2007

Luigi Ghirri "Atelier MORANDI "

Luigi_ghirriそういえば、須賀さんの全集の表紙に使われてる写真、本の巻末で、直ぐにそれがルイジ・ギリ Luigi Ghirri というイタリアの写真家の作品だということが判明、そして、ずばり『アトリエ・モランディ Atelier MORANDI』というタイトルの、ボローニャ近郊やモランディのアトリエを撮影した写真集が出版されていることも解りました。

当然のごとく、私のことですから(^^; その写真集を見てみたい気持ちがムクムク湧きあがったのだけど・・・
ネットで見つけた洋古書屋さんをのぞいて見ると、お値段6510円ですって~ 私には、ちょっと高い。(^^;

う~む、どうしよう、どうしようと悩んでいるうちに年があけてしまった。

でも、やっぱり気になる。
なぜだか、ここ数日、急に見たい気持ちが、またモコモコ湧いてきちゃった。(^^)

フランスのアマゾンでも扱ってないようだし・・・
もたもたしてると、本当に手に入らなくなってしまうかもしれない。
今、絵の制作中で時間がないのだけど、合い間を見つけて、お店リムアート、訪ねてみようかな。
本ばかりでなく、お店そのものや家具もステキな感じ。(^^)

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20 November 2006

文庫版『須賀敦子全集』

Atsuko_suga_kawade先日、本屋さんをブラブラしていて、偶然イイモノ見つけてしまいました。(^^)

文庫版『須賀敦子全集』(2006年10月、河出文庫)です!

2000年に河出書房新社から全集が出た時も、いいなぁ~欲しいなぁ~とは思ったものの、一冊5,000円以上する本を全9冊揃えるのは、私には財政的にちょっと厳しく、諦めたままでした。(^^;

Morandi_1939_1その全集の文庫版が、この秋から順次、河出文庫から出版されるようなのです。
手にとってページをめくると、紙面が小さいので余白はギチギチ、文字もぎっしりで、決してレイアウト的に美しい本とは言えないのでありますが、やっぱり、お手軽価格が嬉しいです♪

Morandi_1948でもね・・・
これを揃えると、今まで集めてきた須賀さんの単行本や文庫本とダブってしまうのですよね・・・
本棚に並べておくには、文庫版全集は合理的なんだけど、古い本を処分するのも、ちょっと寂しいし・・・
どうしたものかぁ・・・

Morandi_1948_49ところで、平積みになっていたこの本を見つけた瞬間、一番最初に私の目に飛び込んで来たのは、実は表紙の絵柄でした。
「あ、モランディだ!」
「あれ? 須賀さんの全集だぁ!」
ってな具合に・・・(^^;

Morandi_1949でも、よくよく見ると、
「モランディの絵じゃない! 写真だよこれ~?」

ジョルジョ・モランディ Giorgio Morandi (1890-1964)は、イタリアのボローニャで生まれ没した画家。
若い頃描いた風景画も残っているけれど、やっぱりモランディと言えば瓶やカップの静物画ですよね。(^^)

Morandi_1955未来派との交流もあり、キュビスムっぽい静物を描いていた時期もあるけれど、私は1940年位から晩年にかけて描かれた、単調なようでいて絶妙なバランスを保っている構図と、柔らかな色調の静物画が大好きです。

Morandi_1957それにしても、表紙のモチーフ、モランディの絵画と驚くほどそっくり!
もしかして、現在、ボローニャに再現されているというモランディのアトリエで撮影したものだったりして?

表紙の写真は、イタリアの写真家ルイジ・ギリの『アトリエ・モランディ』からのものだということが解りました。
Luigi Ghirri "Atelier MORANDI "
(16Jan2007追記)

アトリエにも、いつか行ってみたいな。
モランディの静物画のような、静寂な世界が感じられるのだろうか?

Morandi_1960【画像 上から】

《静物》 1939年
油彩、カンヴァス 41,5×47,3cm
モランディ美術館(ボローニャ、イタリア)


《静物》1948年
油彩、カンヴァス 35,9×50cm
モランディ美術館(ボローニャ、イタリア)

《静物》1948~49年
油彩、カンヴァス 26×35cm
Thyssen-Bornemisza Museum(マドリッド、スペイン)

《静物》1949年
油彩、カンヴァス 32.5×42.0cm
ニューサウス・ウェールズ・アート・ギャラリー(シドニー、オーストラリア)

《静物》1955年
油彩、カンヴァス  35.56×45.72cm
ナショナル・ギャラリー(ワシントンD.C、アメリカ)

《静物》1957年
油彩、カンヴァス 35.4×40.9cm
ニューサウス・ウェールズ・アート・ギャラリー(シドニー、オーストラリア)

《静物》1960年
油彩、カンヴァス 35.5×40.5cm
モランディ美術館(ボローニャ、イタリア)

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22 March 2006

須賀敦子「ヒヤシンスの記憶」

Hyacinthus今年もヒヤシンスが咲き始めました。

ヒヤシンスの甘く透きとおった香りが、私は好きです。
摘んできてコップに挿すと、ふわ~っと部屋中が春になります。

そして、その香りをかぐと思い出すのが、須賀敦子さんの『トリエステの坂道』に収録されているエッセイ「ヒヤシンスの記憶」の中のヴィルジリオ・ジョッティ(1885-1957)の詩 《ヒヤシンス》。
 
 
 
白と薄むらさきの二本の

ヒヤシンス、さっき

ぼくにくれながら、ちょっと

笑ってた、きみに似ている。

蒼い顔して、白い歯をみせ、

しっかりとぼくにさしだしながら。

いま、コップのなかで蒼ざめて咲く

花たち、色あせた壁を背に、

窓からはいって、すりへった石の上を

よこぎっていく日のひかりのとなりで。

すべてのなかで燦めいているのはあの

蒼ざめた薄むらさきだけ。夜あけが

残した、ひとつの炎。

よい匂いが、家にあふれる。

まるで、ぼくたちの愛のようで、

それ自身は、ほんとうになんでもなく、

ただ蒼いという、それだけだが。燦めく蒼さで、

燃える蒼さで、希望とおなじ、いい匂いで。

ふと、気づくと、胸いっぱいにひろがる、

その匂い。ぼくの家が、きみの家で、

きみとぼくとが、テーブルに

クロスをいっしょにひろげ、

ぼくたちが準備しているのを

ちっちゃな足で、背のびして

のぞく、だれかさんが、いて。

(須賀敦子訳)
 
 

私のイタリア語力では、その違いが全く解らないのだけれど、イタリアには、とても沢山の方言や訛りがあるそうで、トリエステ生まれのジョッティは、この詩をトリエステの言葉を使い、もの静かな口調で書いているのだそうです。

確かに、この詩からは愛の喜びや幸せが沢山あふれ出ているのだけれど、どことなく控えめで、ちょっとくぐもったような雰囲気や、まだそんなに強くはない春の柔らかな朝の光や、ペールトーンの部屋の色や匂いが感じられるのです。
そして、なぜだかホッと落ち着けるのは、きっと須賀さんがジョッティの言葉を見事に日本語に置き換えてくださっているからなのでしょうね。

ところで、前述のとおり、イタリアには数多くの方言があるそうですが、それらは、それぞれの都市の歴史と文化の伝統が洗練を重ねてきた過程で、それぞれの「国語」に近い感覚を持つようになって行ったのだそうです。
イタリアの都市って、街並みばかりでなく、言葉もちゃんと大切に守っているのですね。

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21 October 2005

須賀敦子『こうちゃん KO-CIAN』

kochan

「あなたは こうちゃんに あったことが ありますか。」

こんな一文から、このお話は始まります。

こうちゃんて、だれだろう。
こうちゃんて、いったいどんな子なんだろう。
色んなことを考えながら読み進むうち、ふと気がつくと自分の中のこうちゃんに出会うのです。

いつの間にか季節が巡ってゆきます。
気がつくとイタリアの古い街を歩いています。
酒井駒子さんの美しい挿し絵と、優しいことばであふれた須賀さんの文が、読むものを、ふっと涙があふれてきそうな懐かしい世界につれていってくれる極上の絵本です。

初出は、1960年、ミラノのコルシア・デイ・セラヴィ書店から発行された「どんぐりのたわごと」第7号。
イタリア語でも同時に出版されたそうです。

須賀敦子『こうちゃん』2004年、河出書房新社

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19 October 2005

対談「歴史的都心を豊かに育むイタリア」

atsuko_sugaイタリア文学者でエッセイストの須賀敦子さんの著書は、言葉一つ一つに優しいリズム感と品のよさが漂っていて、大好きなのだけど、ご自身の生き方も、ピンと一本筋がとおっていて、私の憧れの人です。

なんと、その須賀さんと、あの陣内さんの対談記事を発見してしまいました。

「歴史的都心(チェントロ・ストリコ)を豊かに育むイタリア」

初出は、日本ホームズというハウスメーカーが出しているらしい1993年4月15日の「Mr.&Mrs」という宣伝情報誌のようですが、『須賀敦子全集 別巻』 2001年、河出書房新社にも入っているので、今でも読むことができます。

ここでもイタリアの小さな地方都市が持っている底知れない魅力や、古いものを残し新しいものと融合させてゆくために辛抱強く取り組んでゆくイタリア人の価値観などが、お二人によって語られています。

規制が甘いゆえ大企業的なスクラップ&ビルドな建設産業化してしまった日本の建築と、形式の規制をなくし、韻もふまず、シブラルも定型も捨ててしまった結果、貧しくなってしまった日本の詩が並べて語られているのも、文学者と建築史家の対談らしいなぁと、妙に感心してしまいました。

ちなみに、イタリアは建築物に対しての規制が厳しいために、色々な次元から考えた結果、総合的空間デザインとなり、手作り的な温かみもあって、人々も生活しやすいものとなっていくのだそうです。

それにしても、須賀さんと陣内さんが、こんなところで繋がっていたなんて、ちょっと嬉しい!

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