26 November 2012

埼玉県立近代美術館「ベン・シャーン展」

Ben_shahn2012先日、埼玉県立近代美術館で「ベン・シャーン展」を観てきました。

今回の展覧会は丸沼芸術の森のコレクションからの出展で、初期の油彩画やテンペラ画、デッサン、ドローイング、版画、ポスターや絵本ばかりでなく、それら原画や壁画の下絵など、ベン・シャーンの手がけた沢山の作品に接することのできる大変見応えあるものでした。

私がベン・シャーンを知るきっかけとなった版画集《リルケ『マルテの手記』より一行の詩のために》も全作品が展示されており、数年前に初めてブリヂストン美術館で目にした時の感動がよみがえりました。

その後、第五福竜丸の被爆をテーマにした絵本『ここが家だ』にも出会いましたが、今回の展覧会は、ベン・シャーンが、そのラッキードラゴンのシリーズをはじめ、貧困や差別、権力者による不正など社会的メッセージを訴え続けたアーティストだったということを改めて知る大変いい機会となりました。

また、社会的テーマを扱った作品ばかりでなく、娘スザンナちゃんが口ずさんだ歌から創った絵本など、とても可愛らしい挿絵の原画も数多く出品されていて、温かで優しさにあふれた作品からはベン・シャーンの人となりを更に深く感じることができました。

ところで、今回、数多くのドローイングや版画の原画などを観て、彼の作品の特徴の一つである線の魅力にも目を奪われましたが、その斬新な構図にも強く感心させられました。
一歩まちがったら、ありゃりゃ~となってしまいそうな難しい構図が絶妙なバランスで納まっていて、思わず上手いな~とうなってしまいました。

そして、絵本に添えられている彼独自の書体が、これまたとってもステキでした。
絵と文字がイイ感じに調和していて、一枚一枚自分の手でページをめくってみたいな~と思わずにはいられない、それはそれは魅力的な絵本たちでした。

それから、展覧会カタログがシンプルだけど暖かみのある絵本のような作りで、何だかとても気になり、つい誘惑に負けて買ってしまいました~

Saitama_kindai01話は変わって、埼玉県立近代美術館におじゃましたのは今回が初めて。
JR北浦和駅にほど近い公園の奥に美術館はありました。
赤や黄に色づいた木立の中に点在する彫刻作品や大きな噴水に目をやりながら進んでいくと、木々の間にカッコイイ建物が見えてきます。

Saitama_kindai02そのシャープな外観を持った美術館建物は黒川紀章さんの1982年の作品で、一見直線的ですがエントランス内部へ進み入ると曲線を繋いだガラス張りのファサードが現れ、後の作品である六本木の国立新美術館の外観を彷彿とさせるものがありました。

Saitama_kindai03波打つガラス面には外側の柱や梁だけでなく周囲の木々が映り込み複雑な線を生み出していて、なかなかステキでした。

また、ピカソやモネ、デルボーなどヨーロッパの作品から佐伯など日本の作品、更には屋外展示場の彫刻作品と所蔵作品も充実していて楽しめました。

Saitama_kindai04



そして最後のきわめつけが、帰り際、ロッカールームで見つけた不思議な物体。
37番のロッカーの中にピカピカ点滅しているのは一体何でしょう?
ほんとに来館者が預けたのでしょうか?
それとも、これも作品?

【追記】マイミクでFBでも友達にさせていただいているパパゲーノさんより耳寄り情報いただきました〜♪
ピカピカ37番ロッカーは、現代美術家 宮島達男(1957〜)さんの作品"Number of Time in Coin-Locker"(1996年)だということが判明。う〜ん、やられちゃいました。さすがです!楽しいです!
宮島さんはLEDのデジタルカウンター等をよく作品に使われているそうで、もしかして私もこれまでに東京都現代美術館などで他の作品も目にしていたのかも?!(2012.12.02追記)

【関連エントリ】
ブリヂストン美術館「コレクションの新地平 − 20世紀美術の息吹」(2008.03.10)
ベン・シャーン&アーサー・ビナード『ここが家だ』(2008.08.25)
The National Art Center. Tokyo(2007.04.16)

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05 January 2010

須賀敦子さんと麻布

Azabu06新しい年を迎えた穏やかな休日の朝、須賀敦子さんが父豊治郎さんの東京転勤にともない小学校3年から女学校3年までの期間(1937~1943)と、フランスに留学するまでの大学院生時代(1951~1953)をすごした麻布本村町界隈を散策して来ました。

以前にも一度、調べものがあって有栖川宮記念公園内の都立中央図書館へ出かけた際、そう言えば須賀さんの「麻布の家」って確か有栖川公園の近くだったなと、周辺を少し歩いてみたのだけれど、その時は急ぎ足だったので、今回は、ゆっくり、かつて須賀家の住まいのあった一角を探してみたり、妹の「こじょんちゃん」と一緒に歩いた聖心女子学院までの通学路を辿ってみました。

外国の大使館が多く、緑豊かで、娘二人が通う学校にも近いからと父豊治郎さんが選んだ麻布本村町は小高い丘の上の閑静な住宅街で、須賀さん一家が暮らす大きな古い家の建っていた116番地は、現在の南麻布三丁目6~8、11番一帯を含む広い敷地だったようです。

Azabu08『遠い朝の本たち』に収録されたエッセイの一節から、当時、その家の2階の窓から古川をへだてた向い側の丘に聖心女子学院の尖塔や伝染病研究所(現東京大学医科学研究所)の建物が臨めたことが解るのですが、現在は、その谷間に林立したビル群に遮られてしまい同じ眺めを確認するのは無理でした。
しかし、すぐ近くに、弟の新さんも通っていた港区立本村小学校が今も変わらずに存在しており、この辺りが須賀家の子供たちやご近所友達のマサコちゃんが遊びまわっていた場所に間違いないと確信できたのでした。

Azabu03ただ、どうしても見つけられなかったのがエッセイの中に何回も登場する「光林寺坂」でした。
地図上にも現地の標識にも、それらしきものは見当たりません。麻布本村町と古川にかかる五之橋をつなぐ坂と言ったら新坂だけです。
ううむ、もしかして、もしかすると・・・
こんな時は地元のお年寄りに訊ねるのが一番なのだけどなぁ・・・
と、あれこれ考えながら横道に入ってみると、ちょうど目の前を老婦人が歩いていました。
よし!思い切って声をかけてみよう!
すると、ああ、やっぱり!
地元の人は、その坂道を「新坂」とも「光林寺坂」とも呼んでいることが、いとも簡単に解りました。
品のいい普段使いの毛皮のコートを纏ったそのご婦人は、もう麻布本村町に住んで50年以上になるのだけど、最近、随分とこの辺りも変わったものだと眺めながら久しぶりの散歩をしていたのよと、懐かしそうに昔の街の様子を聞かせてくださいました。

Azabu02女性にお礼を言い、謎が解けスッキリした気分で光林寺坂を下りきると、古川にかかる「五之橋」が首都高の影に隠れるようにありました。
この辺りには小さな町工場が軒を連ねていたそうで、学校からの帰り道、機械から削り出される金属のクズや雲母のかけらを拾ったエピソードがエッセイの中にも綴られています。
そう言えば、お小遣いを貯めて花束を作ってもらった花屋の「花よし」さんが、この小さな橋のたもとにあったはずですが、首都高建設時にでも立ち退きを迫られたのでしょうか、残念ながら見つけることはできませんでした。

Azabu01五之橋を渡り商店街を抜け、一旦、道を左に折れ、更に三光坂下から大きなお屋敷のつづく三光坂を上って行くと、坂の上の右手に並木道が現れました。その坂道を下った先にユニークなデザインの聖心女子学院の正門が見えたのでした。
屋根のついたアーチ型の門は広島の原爆ドームを設計したチェコ人ヤン・レツルが1909年(明治42年)に作ったものだそうです。
間違いなく須賀さんもくぐった門です。

南麻布から白金まで坂道を上ったり下ったり、小学生の女の子の足では片道30分位はかかったであろう通学路を辿り、関西から東京へ引っ越して来て、なかなか新しい学校にも、庭の狭い古くさい家にも馴染めなかった少女時代の須賀さんに思いを馳せながら、私の小さな旅も終わりました。

おまけを一つ。
この日、広尾駅の近くに赤いドアの可愛いお店を発見♪
何と!それは少女だった頃の須賀さんも夢中になった『少女の友』や『ひまわり』『それいゆ』など美しい挿絵の少女向け雑誌で知られている中原淳一さん(1913〜1983)のショップだったのです。
夢いっぱいの小物から復刻版の雑誌まで多彩な品揃えに、私も思わず財布の紐が緩んでしまいました。

中原淳一公式ホームページ

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22 December 2009

横浜山手西洋館のクリスマス

Xmas01先日、世界のクリスマス2009 開催中の横浜山手西洋館を巡ってきました。

空は雲ひとつない冬晴れ♪
まだ梢に木の葉を残したままの樹々を仰いだり、目前に広がる横浜港を眺めたり。頬にあたる風はチョッピリ冷たかったけれど最高のお散歩日和でした。

Xmas02カメラは、まだまだ全然使いこなせていませんが、ファインダーから覗くもう一つの世界にワクワクしながらの散策は、とても楽しい♪

Xmas03ブラフ18番館は「イタリア」、ベーリック・ホールは「イギリス」、エリスマン邸は「フランス」と、各館で、それぞれの国をイメージしたクリスマス・デコレーションが美しくコーディネイトされていて、ジックリ見ようと思ったら幾ら時間があっても足りないくらい。
しかも、大変な人出のため、入館するのも一苦労。あまりの混雑ぶりに山手234番館の「コスタリカ」はスルーしちゃいました。

Xmas04また、夕暮れ近くになると建物がライトアップされ、外観を飾るイルミネーションが点灯し、日没と共に変化する空の色と、そのグラデーションの美しさに魅せられました。

そんな、日が蔭り、急激に気温も下がる頃、ふと気がつくと、どこからともなく三脚付のカメラを携えて次々と現れるカメラマンでイタリア山は一杯に。

Xmas05とっくの昔にイーゼルを畳んでいるであろう画家(私のことか?)とは、やっぱり気合いの入り方が違うなぁと、深く感心してしまいました。

【画像】上から
山手十番館(レストラン&カフェ)
ベーリック・ホールの書斎
ベーリック・ホールの子供部屋
ブラフ18番館
アントニン・レーモンド設計のエリスマン邸

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26 November 2009

豊郷小学校旧校舎の「ウサギとカメ」

Toyosato012002年冬、寒々とした校庭を舞台に、町長と、その町長の指示により強行に解体されかかった校舎を守ろうと人間バリケードをつくり、立てこもった住民との間で繰り広げられた騒動は、テレビ等メディアを通じて広く報道されたので覚えてらっしゃる方も多いのではないでしょうか。

Toyosato02その当時、私は「あらあら大変!困った町長さんだわね。それにしても住民の熱意はスゴイなぁ、そこまでして残したい校舎なのかぁ。」程度の呑気な反応しか出来ず、背後に映っている薄汚れた校舎から感じるものも特にありませんでした。そして、報道が下火になると同時に、すっかり騒動のことも忘れてしまったのでした。勿論、その旧校舎がヴォーリズさんの手がけた名建築の一つだとは知る由もないまま。

Toyosato03結局、この「校舎改築問題」は、私の知らぬまに町長が方針を転換し新校舎を建設しながら旧校舎を保存することで決着。今回こうして私が豊郷小学校旧校舎を訪ねることが出来たのも、長年、保存運動を続けてくださった住民の皆さんの熱意と尽力のおかげだったのです。

   ◇  ◇  ◇

1937年(昭和12年)、卒業生の古川鉄治郎さん(1878〜1940)からの全額寄付により、ヴォーリズさんの設計で豊郷小学校旧校舎(当時は豊郷尋常高等小学校)は建てられました。

教室や廊下には温水暖房が設備され、理科室にはコックス配電装置とガス装置、職員室には各建物に通じる電話交換室、そして水洗式のトイレと最新の設備を整えた鉄筋コンクリート造りの校舎は、当時「東洋一の小学校」と言われたのだそうです。

また、廊下に柱が出っ張って通行の邪魔にならないようにと柱の面まで壁にし外壁との間に空間をつくって耐寒耐暑構造にしたり、図書館を別棟にし書庫の安全を図るなど、細やかな配慮の行き届いた校舎でした。

Toyosato04更に、ヴォーリズさんの設計の素晴らしいところは、そういった機能面ばかりでなく、子供達へ向けられた、さり気ない優しさが、あちこちに感じられることです。

階段に長いツルツルの手摺りがあれば滑り降りたくなるのが子供というもの。そこで、ヴォーリズさんは子供たちの安全を守るために手摺りの所どころにイソップの寓話を元にした「ウサギとカメ」の彫刻を設置しました。

Toyosato05すやすや昼寝をするウサギ、その隙にひたすら手摺りを登るカメ、なんて可愛いのでしょう♪

しかし、この豊郷小学校旧校舎のシンボルとも言うべき、この「ウサギとカメ」、一時、校舎から姿を消していたことがありました。
太平洋戦争勃発による物資不足のため「ウサギとカメ」はもちろん、古川鉄治郎さんの胸像、ボイラー設備や暖房設備などが供出で徴収されてしまったのです。

Toyosato06そんな「ウサギとカメ」が蘇ったのは昭和39年、豊郷小学校の近くに東海道新幹線がひかれた後でした。
ある日のこと、校舎建設中に現場監督を務めていた竹中工務店の神谷新一さんが開通したばかりの新幹線の車中で、ふと豊郷小学校のことを思い出しました。そして27年ぶりに小学校を訪れたところ、階段の手摺りに光っているはずの「ウサギとカメ」がなくなっていたのです。
そこで神谷さんは、古い資料の中から設計図と型を探し出し、何と自費で復元してくださったのだそうです。

Toyosato072004年には隣接した敷地に立派な新校舎も完成し、小学校校舎としての役割を終えた建物は、現在、町立図書館などの入いる複合施設として再び活用されています。

豊郷町は決して交通の便が良いとは言えない所です。
けれど、未来を担う子供達や町を大切に思う多くの人々から愛され守られてきた美しい建物を拝見することができ、はるばる訪ねて本当に良かったと思いました。

   ◇  ◇  ◇

豊郷町立豊郷小学校旧校舎
(旧豊郷尋常高等小学校)
1937年(昭和12年)
設計:ウィリアム・メレル・ヴォーリズ
滋賀県犬上郡豊郷町石畑518

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22 November 2009

近江商人の街並み

Omi_hachiman01近江八幡の街には、ヴォーリズ建築ばかりではなく、天正13年(1585年)豊臣秀次が八幡山に築城した際に開かれた城下町を基に、その後、近江商人の町として栄えた街並みや、交通運輸として重要な役割を果たした堀が現在も残されています。

Omi_hachiman02近江八幡の町家は軒下の壁に貫が見える中二階建てが多く、それが他には例のないデザインの特徴になっているそうです。
特に平成3年に「国重要伝統的建造物群保存地区」に選定された地域は道の両側に古い立派な商家が軒を連ねていて、電柱や電線がないためか、街並みの美しさがとても際立っていました。
何だか洋服を着て歩いてる自分に違和感を覚えてしまったほど。

Omi_hachiman03ところで、この界隈、ピタッと戸や窓を閉ざした家がほとんどで、現在は商売をしている様子も感じられず、住人の姿を見かけることもなかったので、ここで生活する人は色々と制約があって大変そうだなと、ちょっと心配になってしまいました。

Omi_hachiman04また、古い建物や街並みを保存することのみが優先され、そこが単なる博物館的な屋外展示場になってしまっては、あまりよろしくないのではないかなとも感じました。
かと言って、お土産屋さんばかりが軒を連ねるようになっても困っちゃうし、歴史的建造物保存は本当に難しそうですね。

Omi_hachiman05でも、戦後、住民から忘れ去られ一時はドブ川と化していた八幡堀を「堀は埋めた瞬間から後悔が始まる。」という近江八幡青年会議所の呼びかけにより復元再生させたほどの街なので、これからも歴史と伝統を良い形で伝えていってくださるに違いありません。

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10 November 2009

ヴォーリズ展 in 近江八幡 その3

Omihachiman11大正時代、池田町の約1千坪の敷地内にヴォーリズさんの設計による建物が並んで建てられました。

ヴォーリズさんの商業学校英語教師時代の教え子で、その後、キリスト教活動のパートナーになった吉田悦蔵さんの住宅、ウォーターハウス邸、ヴォーリズ邸(非現存)、二戸一住宅になっている近江ミッション・ダブルハウスの4棟です。

Omihachiman10現在も、そのうちの3棟と塀や門が残っていて「池田町洋風住宅街」と呼ばれています。

住宅を囲んでいるレンガ積みの塀も、とても良い雰囲気です。当時はレンガも手焼きだったので、くびれたり膨らんだりと焼き損じのレンガが出ると、ヴォーリズさんは塀などに再活用したのだそうです。
不揃いだけど、それが、かえって良い味になっていますね。

Omihachiman12ウォーターハウス記念館
(旧ウォーターハウス邸)
1913年(大正2年)
設計:ウィリアム・メレル・ヴォーリズ
滋賀県近江八幡市池田町5

旧近江ミッション・ダブルハウス
1921年(大正10年)
設計:ウィリアム・メレル・ヴォーリズ
滋賀県近江八幡市池田町5

   ◇  ◇  ◇

Omihachiman13大阪朝日新聞社で活躍した忠田兵造さんが後半生の住まいとして郷里に建てた住宅です。

現在は、たねやグループが経営する和・洋菓子の総合店舗として再生され、ヴォーリズ建築内特別室として利用できるようです。
こんなステキなお部屋で、クラブハリエのバームクーヘン食べてみた〜い♪

クラブハリエ日牟禮館(旧忠田邸)
1936年(昭和11年)
設計:ウィリアム・メレル・ヴォーリズ
滋賀県近江八幡市宮内町243日牟禮ヴィレッジ

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09 November 2009

ヴォーリズ展 in 近江八幡 その2

Omihachiman05かつてはヴォーリズさんの住まいだったヴォーリズ記念館は、シンプルな箱型のどちらかと言えば地味な外観。
限られたスペースを無駄なく活用した造りからはヴォーリズさんの理念が感じられ、簡素ではあるけれど使い込まれた家具やアップライトのピアノなど、そこにあるもの全てが美しく調和した、穏やかな雰囲気の住まいでした。
本棚の中には沢山のヴォーリズさんの蔵書が今もそのまま残されていて、ふと振り返れば、椅子に腰掛け読書しているヴォーリズさんに今でも会えそうな、そんな空間でした。

ヴォーリズ記念館(旧ヴォーリズ邸)
1931年(昭和6年)
滋賀県近江八幡市慈恩寺町

   ◇  ◇  ◇

Omihachiman06旧岩瀬医院&岩瀬邸は、個人所有の建物なので外観のみ拝見。
診療所の並びの邸宅もヴォーリズさんの設計だったのですが、外観が純和風だったので、そうとは気づかず撮影し忘れてしまいました。
そんな訳で写真は医院部分のみ。いかにも診療所らしい清潔な外観ですね。中も当時のまま残っているのかな?

村岡邸(旧岩瀬医院&岩瀬邸)
1933年(昭和8年)
滋賀県近江八幡市永原町

   ◇  ◇  ◇

Omihachiman07玄関を入って右側の部屋は内装や家具だけでなくネジ巻きの蓄音機など面白そうなものが沢山残されていて興味津々。
一方、入って左側の部屋は近頃の素材を使った修復がされているようで、ちょっぴり残念。
外回りも、きれい過ぎるくらい良く手入れがされていました。

近江兄弟社アンドリュース記念館
(旧近江八幡YMCA会館)
1935年(昭和10年)
滋賀県近江八幡市為心町

   ◇  ◇  ◇

Omihachiman08近江八幡教会のすぐ目の前にある牧師館。
もともとは寮だったので、かなり大きな建物です。もちろん現在も使われているので、私が訪ねた時も玄関先で二人のご婦人が、かなり長い間立ち話をされていました。
そういう訳で、本当は玄関周辺を撮りたかったのだけど断念。
ちなみに教会も、かつては1924年に建てられたヴォーリズ建築でしたが、火災で焼失後、別の建物に建替えられたのだそうです。

日本基督教団近江八幡教会牧師館
(旧近江兄弟社地塩寮)
1924年頃?(昭和初期)
滋賀県近江八幡市為心町

   ◇  ◇  ◇

Omihachiman09YMCA派遣教師として来日したヴォーリズさんが英語教師として勤めた旧八幡商業学校の本館。
ヴォーリズさんは着任して間もなくバイブルの勉強会を開き、生徒達の心をつかんでしまったことが、かえって地元町民や他宗教の反発を呼んでしまい、僅か2年あまりで解任されてしまったのだそうです。
後年、そんな苦い思い出のある学校の設計をも引き受けてしまうところが、さすがヴォーリズさんですね!
直線を活かしたシャープなファサードが印象的。
玄関周辺のデザインも、さり気なくアールデコ調だったのには感心させられました。

滋賀県立八幡商業高等学校本館
(旧滋賀県立八幡商業学校本館)
1940年(昭和15年)
滋賀県近江八幡市宇津呂町

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08 November 2009

ヴォーリズ展 in 近江八幡 その1

Omihachiman01ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(1880〜1964)が1905年(明治38年)に24歳で来日して以来、活躍の拠点として生涯のほとんどをすごし、現在も建築ばかりでなく多くの功績の残っている近江八幡で、10月3日から11月3日まで開催された「ウィリアム・メレル・ヴォーリズ展 in 近江八幡」へ行ってきました。

ヴォーリズさんに関する展示を近江八幡市内に現存しているヴォーリズ建築に分散展示し、街を散策しながら、様々な角度から迫ったヴォーリズさんの横顔に触れることのできる画期的な展覧会でした。

また、公式ガイドブックに載っているモデルコースに従って街を巡っていけば、初めてこの街を訪れた私のような不慣れなものでも効率よくヴォーリズ建築をまわることができ、大助かりでした。

そして、各々の会場で案内役を務めてくださった市民ボランディアの方々と言葉を交わしたり、説明をしていただいているうちに、街の人々がヴォーリズさんに対して親しみや慈しみの気持ちを持ち続け、誇りに思っていらっしゃることが、とても強く伝わってきました。

Omihachiman02そんな、今もヴォーリズさんの息づいている街を、私もタイムスリップした気分で、のんびりと楽しく散策させていただきました。

一番最初は「旧八幡郵便局舎」。
小さいながらも、とてもエキゾティックな外観が印象的な建物でした。

Omihachiman04内部には、作り付けの木製カウンターや引き出しが当時のまま残っていて、細かな植物模様の刻まれたガラスが、とても繊細でステキでした。

Omihachiman03
次は「近江兄弟社学園ハイド記念館」。
近江兄弟社学園は、ヴォーリズ夫人の満喜子さんが開いた保育施設「清友園」から始まった現在は保育園から高等学校までが併設された学校で、私が訪ねた日は休日だったのですが、クラブ活動で登校していた生徒さんが爽やかな挨拶を、ごく自然にしてくださったのが、とても気持ちよかったです。
階段の下に引き出しが設けられていたり、小さな子供たち一人一人のための木製ロッカーなど、とても細やかな配慮の行き届いた、優しさにあふれた美しい建物でした。

   ◇  ◇  ◇

旧八幡郵便局舎
1921年(大正10年)
設計:ウィリアム・メレル・ヴォーリズ
滋賀県近江八幡市仲屋町

   ◇  ◇  ◇  

近江兄弟社学園ハイド記念館
1931年(昭和6年)
設計:ウィリアム・メレル・ヴォーリズ
滋賀県近江八幡市市井町

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02 November 2009

オルガンの音響く「明治学院礼拝堂」

Meijigakuin01昨日、数少ない東京のヴォーリズ建築の一つ「明治学院礼拝堂」へ行ってまいりました♪

一月ほど前のこと、東京文化財ウィーク2009のパンフレットをパラパラとめくっていると、そこには、2日間のみ特別公開される「明治学院インブリー館」と共に、ヴォーリズさんが手がけた礼拝堂も一般公開されるという情報が。
これは絶対行かなくちゃ!と楽しみに待っていたのでした。

Meijigakuin02この日は、ちょうど学園祭も開催されていて、道中、ブラスバンドとチアリーダーのパレードに遭遇したり、キャンパス内は学生さん達の元気な呼び込みの声があふれていたりと、なかなか賑やかでした。

そんな訳で、ゆっくり静かに拝見させていただくという訳にはいかなかったのですが(見せて頂いてるのに、そんなこと言うのは我が侭ですね)逆に学園祭期間中だったが故の幸運もありました。

Meijigakuin03飾り気のない小さな入り口からエントランスに足を踏み入れると、あ!オルガンの音がする♪
そのメロディーに導かれるようにして中に入ると、想像していたより、ずっと大きな礼拝堂には、これまた、とても立派な美しいパイプオルガンがあり、ちょうどバッハ(だと思う)が演奏されている最中でした。(翌日の演奏会のリハーサルだったようです)

Meijigakuin04入り口でいただいたリーフレットによると、2003年12月から2008年2月にかけて行われた礼拝堂の改修工事に併せて設置が進められていたオルガンは、オランダ人オルガン・ビルダーのヘンク・ファン・エーケンさんの「最高品質のオルガンを設置したい」という妥協のない制作姿勢により完成が大幅におくれ、つい先日の2009年10月末に奉献式を終えたばかりのピッカピカの新しいオルガンだったのです♪

そして、このオルガン、もちろん新品なのですが、18世紀前半の北西ヨーロッパの伝統を受け継いだ「古き良き音」を再現したものだそうで、19世紀に一度完全に途切れてしまったオルガン建造技術を復活すべく、材料の吟味から始まり、すべて工程で古来からの方法を使って手作りしたのだそうです。

Meijigakuin05ところで、1916年(大正5年)に竣工した礼拝堂は、その3年後にヴォーリズさんご自身も結婚式を挙げられた縁あるもので、その、むき出しの梁と木組みの天井が特徴の、とても素晴らしい建物でした。
堂々とした威厳を保ちながらも、暖かで優しさを感じさせるところがヴォーリズさんらしいですね。
ただ、礼拝堂翼部は昭和9年に増築されたものなので、もしかすると竣工当時と現在とでは外観も内部の印象も、かなり違ったものになっているかもしれないです。
オルガンの音色に耳を傾けながら、翼部の無かった頃を頭の中でイメージしてみたり、とても楽しい時間を過ごさせていただきました。

   ◇  ◇  ◇

明治学院礼拝堂
1916年(大正5年)
設計:ウィリアム・メレル・ヴォーリズ
東京都港区白金台1-2-37

【関連エントリ】
明治学院「インブリー館」
明治学院「記念館」

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26 October 2009

心落ちつく「駒井家住宅」

Komaike01東寺を出る頃には、朝から降り続いていた雨もあがり空も明るくなってきました♪

天気予報では確か今日は一日中雨で、午後には、かなり激しくなると言ってたけど・・・

うふふ(^^)私の晴れ女パワーが効いてきたかな?と(いい気なもんだ(^^;;;)足取りも軽く、次の目的地、北白川へ向かうことにしました。

北大路で地下鉄からバスに乗り換え着いたのは、円熟期のヴォーリズさんが手がけた駒井家住宅。
それは白川疎水周辺に広がる緑豊かで閑静な住宅街にありました。

Komaike02半分開いていた小さな門から、そっと中へ入ると、すぐにスパニッシュ風アーチで飾られた玄関が見えます。
そして、そこに立った瞬間、横浜や神戸などに残る西洋式住宅とは何となく雰囲気の違うことに気がつきました。

Komaike03その理由は、ゆっくり建物の中を拝見させていただくうちに解ってきました。

まず、その一つが使われているスケールです。
実際に測ってみた訳でも図面を見た訳でもないので、あくまで私の勘ですが(^^; この住宅は西洋風な意匠だけれど使われた寸法は従来の日本のものだったのではないかと感じました。
もう一つは、過度の贅沢品や華美なものが一つもないこと。

Komaike04ヴォーリズ住宅に欠くことのできない暖炉すらありません。(暖炉と洋瓦は、周囲の景観に配慮した施主の希望により取り入れなかったのだそうです。)

だからでしょうか? あふあふと慌てて到着したにも関らず、その空間に身を置いた途端、我が家に帰ったような、すっと心落ちつくものを感じました。

Komaike05この住宅の施主である駒井卓さん(1886~1972)は、ダーウィンの研究でも知られている理学博士。京都大学で教鞭もとられていたそうです。

「日常生活の使用に対して、住み心地のよい、健康を守るに良い能率的建物を要求する熱心なる建築依頼者の需に応じて、吾々はその意をよく汲む奉仕者となるべきである。」というヴォーリズさんの建築理念に共感したことや、夫人の静江さんとヴォーリズ夫人の満喜子さんが神戸女学院の同窓生だった縁もあり、設計をお願いしたそうです。

Komaike06教え子など大勢の来客にも対応できる居間、庭に面したサンルーム、博士の書斎、窓から比叡山をはじめ周囲の山々が一望できる寝室など、どの部屋も、とても居心地が良さそうでした。

Komaike07_2また、作り付けの家具、腰掛の下の引き出し、機械仕掛けの梯子で登れる屋根裏収納、階段下のスペースを利用したトイレ等、細やかな工夫が随所にみられ、機能的にも優れた住宅だったことが解りました。

Komaike08庭には、ヴォーリズさんの設計ではありませんが書生さんの為の離れや小さな温室も残っていて、決して広いとは言えないスペースですが、博士が住まわれていた当時の雰囲気そのままを伝えているのではないかと思われました。

カメラ片手に住宅や温室を出たり入ったりしているうちに、あっ、また雨が・・・(^^;;;

復路は茶山駅から叡山電車に乗って出町柳まで戻りました。

   ◇  ◇  ◇

駒井家住宅(駒井卓・静江記念館)
1927年(昭和2年)
設計:ウィリアム・メレル・ヴォーリズ
京都市左京区北白川伊織町64番地

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