NHK「探検ロマン世界遺産」にマルタ島ヴァレッタ登場!
今週の土曜日(2月3日)夜8時、NHK総合テレビで放送される「探検ロマン世界遺産」にマルタ共和国の首都ヴァレッタが、いよいよ登場します♪(^^)
先週、番組の最後に流れる予告をみて、キャホー♪と喜びの声をあげてしまった私。(^^;
マイナーな街(?)ゆえ、映像で見る機会ってそう多くないと思うので、みなさんも、ぜひぜひ見てね!(^^)
今週の土曜日(2月3日)夜8時、NHK総合テレビで放送される「探検ロマン世界遺産」にマルタ共和国の首都ヴァレッタが、いよいよ登場します♪(^^)
先週、番組の最後に流れる予告をみて、キャホー♪と喜びの声をあげてしまった私。(^^;
マイナーな街(?)ゆえ、映像で見る機会ってそう多くないと思うので、みなさんも、ぜひぜひ見てね!(^^)
マルタ島の真ん中から少し南西に下った小高い丘の上に イムディーナ Mdina と呼ばれる古都があります。
(マルタ語では「M」を「イム」と発音するんですよ。)
イムディーナとはアラビア語で「城壁の街」のことだそうで、文字通り城壁に囲まれた周囲わずか1キロ程の小さな小さな街でした。
別名「サイレント・シティ」とも呼ばれているイムディーナ。
その基礎が築かれたのは青銅器時代後期(BC1500〜BC1000年頃)のことで、その後フェニキア人による古代都市として使われ、4世紀頃にはキリスト教の司教座も置かれ、栄えました。
そして9世紀頃、一度はアラブ人によって略奪、破壊され廃墟となりましたが、12世紀にはノルマン人によって再建され、中世の街として形造られてゆきました。
16世紀になると聖ヨハネ騎士団が首都とし、一時は20を越える貴族の館が建ち並び、騎士たちも闊歩したのだそうです。
しかし、その後、首都がヴァレッタへ移転。人々も移住してしまい、イムディーナは、そのまま取り残され静寂の街となってしまったのでした。
そして現在、すっかり観光化されてしまったとはいえ、やはり、にぎやかなのはメインロードだけ。
路地へ一歩踏み込むと、誰一人すれちがう者もなく、生活音も、自動車の音も、風の音もしない、とても不思議な世界がそこにはありました。
しかも、そのマルタストーンで造られた街の美しいことといったらありません。
バロック時代の彫刻で飾りたてられた建物も勿論ですが、特に、中世の時代、石切り職人さんが一つ一つ切り出したというゴツゴツした肌合いの石を積み上げた建物の方に、私は、より魅力を感じてしまいました。
それはマルタ・ストーンの柔らかなハチミツ色のせいなのでしょうか?
石造りの街並みなのに冷たさや近寄り難さはなく、そこには優しさや暖かささえ感じてしまいました。
また、クネクネと曲がった迷路のような道は、外部からの侵入者の視界が効かないよう、また、撃った矢が遠くまで達しないようにと設計されたものだそうです。
なるほどね~
実は、こう見えて私、割と方向感覚に強く(動物的勘が働くと言われてる)大抵ちょっと詳しい地図さえあれば初めての街でも平気で一人歩き出来てしまうのですが、イムディーナでは写真撮影に夢中になっているうちに全く方向が解らなくなってしまい、道を尋ねようにも通りがかる人はいないしで、かなり焦ったのでした。
でも、ね、ま、そういう狙いで造った街なのだから、それも当然と言えば当然なのでした。(^^; あは!言い訳〜
という訳で、もう一つイムディーナの街並みのフォト・アルバムも作ってみました。
ヴァレッタの街もお気に入りだけれど、イムディーナのほうが、もっと好きかなぁ~!(^^)
アルバムのトップページ左上に、この記事と同じメインゲートの写真がありますので、どうぞ、その門から古都イムディーナへお入りくださいませ。(^^)
マルタ旅行の写真を「フォト・アルバム」にしてみました。
でも、これ、ほ〜んの一部なんです。
記事も写真も、相変わらずヴァレッタの辺りをウロウロ・・・
マルタには他にも沢山いいところあるのに・・・
間に合わな〜い(^^;
ひとまずヴァレッタの街並みだけでも見ていただければ
嬉しいです。(^^)
あら! レ・パラダン、のだめ、須賀さん全集、モランディなどなど、次から次へ私の好奇心を刺激するものが現れるものだから、すっかり脱線してしまったけれど、そろそろマルタ旅行記に戻らなくちゃ。
このペースでは完全に年が明けてしまいそう・・・(^^;
せめて、マルタの至宝カラヴァッジョの《洗礼者聖ヨハネの斬首》だけでも片付けちゃおっと。
実は私、1996年夏、たまたま訪れたフィレンツェのヴェッキオ宮殿で門外不出のはずのこの作品を一度観ています。
本来あるはずのない場所での思いがけないカラヴァッジョの最高傑作との出会いに、すご〜く興奮したこともハッキリ覚えています。
今回のマルタ旅行の目的の一つは、10年ぶりに、この作品に今度は私から会いに行くことでした。
それでは、まいりま~す。
◇ ◇ ◇
しばらく豪華絢爛な本堂や礼拝堂で上を見たり下を見たりと忙しくしていた為かクラクラと軽い眩暈のような感覚を抱いたまま次の間へ進むと、そこが聖ヨハネの祈祷室 The oratory of St.Johnでした。
奥に細長く伸びた堂内には、いかにも特別な空間といった厳かな雰囲気が漂っており、入室者の殆どが他のものには目もくれず、一番奥の主祭壇で圧倒的な存在感を放っている巨大な祭壇画カラヴァッジョ《洗礼者聖ヨハネの斬首》の前に吸い寄せられてゆくのでした。かく言う私も同じでした。(^^;
《洗礼者聖ヨハネの斬首》(1608年、油彩・カンヴァス 361×520cm)は一段高くなった主祭壇の奥に架けられているため美術館で絵画を鑑賞するように接近することは出来ませんが、画面全体に散りばめられたハイライトが薄暗い室内に浮かび上がり、こちらに迫ってくるようです。
また、死刑執行人の背中、洗礼者聖ヨハネを押さえつける真っ直ぐに伸びた腕、洗礼者聖ヨハネの顔、銀の皿、サロメ、召使いの老女、看守、牢の格子窓から覗き見する2人の囚人へと、見るものの視線を順に導いてゆく画面構成の何と巧みなこと。
そして、恐ろしい死の場面が描かれているにも関わらず、その抑制された画面が静謐さをも感じさせるのです。
とても不思議な感覚です。
「うううむ、さすがカラヴァッジョ! 上手いなぁ!」と、シンと静まった部屋の中で、私は危うく声をあげてしまいそうになったのでした。
今さら言うまでもないことですが、洗礼者聖ヨハネは聖ヨハネ騎士団の守護聖人です。
もしかして、カラヴァッジョの描いた洗礼者は、騎士団そのものを象徴しているのではないでしょうか。
イスラム軍との激しい戦いを強いられ死を常に覚悟していた騎士達は、洗礼者聖ヨハネに自らの姿を重ね見たのかもしれません。
洗礼者聖ヨハネの首から流れる血は、二度目の洗礼と言われている「血の洗礼」を意味し、更に騎士達の「殉教」を現していたのかも?
蛇足ですが、主祭壇の前面についていた金色のレリーフも気になったので良く見てみると、こちらは洗礼者聖ヨハネの生首をサロメの持つ銀の皿に死刑執行人がのせている場面でした。う〜む、斬首づくし。(^^;
さて、この絵の作者ミケランジェロ・メリージ・カラヴァッジョ Michelangelo Merisi Caravaggio (1573-1610)は、聖ヨハネ騎士団長アロフ・ドゥ・ヴィニャクールの計らいで、1608年7月14日に「従順の騎士 Cavalieri di obbedienza」のうちの「恩寵の騎士 Cavaliere di grazia」の称号と、ご褒美に金鎖と二人の奴隷を与えられました。
ところが、またやっちゃったんです、血の気の多いミケくん・・・(^^;
僅か1ヶ月後の1608年8月18日、高位の騎士ベッツァ伯ロドモンテ・ロエロを襲撃し、8月27日には囚われの身となってしまったのです。
しかし、騎士の称号を得たことに大変な名誉を感じていたカラヴァッジョは、恐らく高い使命感や誇りを持って、この作品を描きつづけたのでしょう。
f.miche.Ang..lo(フラ・ミケランジェロ)すなわち「ミケランジェロ、ここ(ヨハネ騎士団)に属す」とサインした唯一の作品であることからも、それをうかがい知ることができます。
しかも、そのサイン、洗礼者聖ヨハネの首から流れ出した血だよん・・・ お〜っ
さぁ、捕らえられたカラヴァッジョ、この後の運命はいかに!
つづく〜(^^;
1606年5月29日、既に画家として高い名声をあげていたミケランジェロ・メリージ・カラヴァッジョ Michelangelo Merisi Caravaggio (1573-1610)は、その激しい性格から、とうとうローマで殺人事件をおこしてしまい逃亡生活を余儀なくされます。そして、ナポリを経て、1607年7月2日、辿り着いたのがマルタ島でした。
マルタ島滞在中、カラヴァッジョは少なくとも5枚の油彩画を制作しており、そのうちの2枚1枚が当時の聖ヨハネ騎士団長アロフ・ドゥ・ヴィニャクール Alof de Wignacourtの肖像画です。(現在、パリのルーヴル美術館とフィレンツェのピッティ美術館がそれぞれ所蔵)
【注】近年、ピッティ美術館の肖像画は、聖ヨハネ騎士団メッシーナ支部長アントニオ・マルテッリの肖像画だということが判明しました。(11Dec2006追記)
そして、聖ヨハネ大聖堂のイタリア騎士の礼拝堂のために依頼された《執筆する聖ヒエロニムス》(1607年 油彩・カンヴァス 117×157cm)も、あら?よ〜く見ると聖ヒエロニムスの顔が騎士団長さんではありませんかぁ!
も〜!こんなところでもモデルさんになっちゃって〜(^^)
この作品、1983年に一度盗難にあったため、現在、イタリア騎士の礼拝堂にはコピーが飾られ、1987年に取り戻され修復も済ませたオリジナルは付属美術館に展示されているのですが、コピーとは言え、本来の場所である礼拝堂の壁面にかけられた作品の傍らに立つと、カラヴァッジョが左上の高窓から差し込む光の効果まで計算にいれて制作したことが良く解ります。
また、聖ヒエロニムスのアトリビュートとされている枢機卿の帽子、幻覚を消すため胸を叩いた石、書物、ペン、髑髏、磔刑像も描かれ、メメント・モリを感じずにはいられませんでした。
あっ! 右下にマルタ十字をアレンジした紋章がある!
誰の紋章だろう?
ヴィニャクール騎士団長のものではなさそうですね。
気になるなぁ。
【注】紋章は、絵を注文した聖ヨハネ騎士団ナポリ支部長イッポーリト・マラスピーナのものだと解りました。(11Dec2006追記)
ところで、聖書をラテン語に訳した学者でもあった聖ヒエロニムスは、高い知性の持ち主であった一方で、とても激しやすい火のような性格だったそう。
なんだかカラヴァッジョと重なるところがありますね・・・
生涯に複数枚の聖ヒエロニムスを描き残したカラヴァッジョですが、短い間だったけれどマルタ島で静かな休息と反省の時をすごしながら描いた、この最後の聖ヒエロニムス。
彼は、一体どんな思いで、この絵と向き合っていたのだろう?
ヴァレッタで絶対に見逃せないものの一つが聖ヨハネ大聖堂 St.John's Co-Cathedral。
1578年2月20日に献堂された教会は、カラヴァッジョの代表作《洗礼者聖ヨハネの斬首》(1608)があることでも有名です。
マルタ・ストーンで造られた大聖堂の外観はとてもシンプルで、厳格な雰囲気すら漂っています。それは聖ヨハネ騎士団の軍事建築家ジェロラモ・カサール Gerolamo Cassar(1530-1593)によって設計・建立されたせいかもしれませんね。
中央扉の両脇にはポッカリあいた台座があって、あららぁ、ここでも聖人の彫刻をフランス・ナポレオン軍に略奪されちゃったのかしら?と思ったら、最初から無かったのだそうです。(^^;
これも「清貧、服従、貞潔」を掲げていた聖ヨハネ騎士団ゆえなのでしょうか?
見学者用の受付は建物の脇にまわった共和国通り側にあります。入り口正面の奥に聖ヨハネ騎士団の紋章マルタ十字が見えてますね〜(^^)
しずしずと厳かな気持ちで堂内に入ってゆくと・・・うわぁ〜あの外観からは、とても想像のできない絢爛豪華なバロック様式の装飾に、まず驚かされてしまいました。
マルタ・ストーンのドームや柱には隙間なく彫刻が施され、蒲鉾型の天井には洗礼者聖ヨハネの生涯が描かれ、床はカラフルな大理石の墓碑で埋め尽くされ、身廊の両側を騎士団が使っていた8つの言語ごとの礼拝堂が取り巻いているのです。
ま〜ゴージャス!
さすが財力を誇った聖ヨハネ騎士団!
う〜む、どこが清貧なんだぁ?(^^;
でも、最初からこうだった訳ではないようです。豪華な印象を与えるようになった要因の一つは、イタリア・カラブリア地方出身のわずか29歳で聖ヨハネ騎士団の騎士の称号を授かった画家マッティア・プレーティ Mattia Preti(1613-1699)による《洗礼者聖ヨハネの生涯》(1663-1666)を描いたボールトにありそうです。
プレーティは、カラヴァッジョから写実をヴェネツィア派から豊かな色彩を学びとった17世紀後半を代表する画家の一人で、18の場面からなる天井画は、一見、フレスコ画のように見えますが、マルタ・ストーンに油彩絵具を用いて描いたそうです。
主祭壇にはジョセッペ・マッツォーリ Giuseppe Mazzuoli(1644-1725)による白大理石の彫刻《キリストの洗礼》が飾られていました。
銀の蝋燭立ても豪華ですね〜
そして、床は、足の踏み場もないほど一面に敷きつめられた色大理石の墓碑。
その数は375もあるそうで、これらは聖ヨハネ騎士団の騎士達のお墓ですね。
髑髏やマルタ十字や武具や紋章など、その多彩なデザインは、なかなか興味深いものがありました。
次は、いよいよカラヴァッジョです!
【関連エントリー】
カラヴァッジョ《執筆する聖ヒエロニムス》聖ヨハネ大聖堂(ヴァレッタ)
カラヴァッジョ《洗礼者聖ヨハネの斬首》聖ヨハネ大聖堂(ヴァレッタ)
マルタ滞在中、毎日とても良いお天気に恵まれ、昼間は街の散策や島巡りをし、夕方にはホテルに戻って夕食前の一時をプライベート・ビーチで一泳ぎという日々でした。(^^)
マルタは石灰岩で出来た島なので、遠浅の砂浜は数えるほどしかなく、ほとんどがゴツゴツとした岩が連なる海岸や断崖絶壁。
私が滞在したサン・ジュリアン地区には、数年前に、どこだかアフリカのほうから砂を運び入れて造ったという人工のパブリック・ビーチがあるほどでした。
もちろんマルタの人々は海水浴が大好きだそう。夏の間は、夕方、家族や友人とワイワイと泳ぎに出かけ、その後、海岸でバーベキューなどして夕食をとるのだそうです。

滞在したホテルには水深も広さも充分ある管理の行き届いたプールがあり、その周りのビーチベッドにゴロンとなって読書をしたり、お昼寝している、のんびりさんも大勢いました。
ヨーロッパの人々の休日の過し方って、やっぱり余裕がありますね~
私はといえば、真っ青な地中海を目の前にしてジッとなんかしていられません。
プールで泳ぐ気にもなれなくて、毎度、プライベート・ビーチへ直行してました。(^^)
かなりの水深があるので、岩の上から海へドッボーンと飛び込むこともできるし、潜って小魚と戯れたり、久しぶりの海水浴は最高でした!
また、ホテルのビーチは小さな入り江のなかにあったので、プカプカ泳いでいると、すぐ目の前をヨットが通り過ぎていったり、ちょっと沖に目をやると豪華客船が滑るように出航していったり。
ちょっと怪しげな船(パトロール中なのかな?)や、マルタ島ならではのカラフルで可愛い小舟も見られ、次から次へと現れる船を眺めているだけでも、とても楽しかったです。
ヨーロッパ諸国や周辺国のオペラ・ハウスを数多く訪れ、その鑑賞レポートをつづった『オペラ放浪記』、『オペラ放浪記2』の著者でらっしゃる 原田満さんが、何と! マルタのロイヤル・オペラ・ハウス跡が駐車場として使われていた頃の写真を送ってくださいました。
1991年に、マルタを訪ねた時に撮影された写真だそうです。
ちょうどオペラ・ハウスの中から自動車が出ようとしている様子が、なかなか興味深いです。
先月、私が訪ねた時とは、やはり随分と雰囲気が違いますね。
やっぱり、野外劇場のほうが似合ってるかなぁ〜(^^)
それにしても、う〜む、このアングルだと・・・
一体、どこから撮ったのだろう?
もしかして要塞の上からかな?
何はともあれ、貴重な写真をどうもありがとうございました。
そうそう『オペラ放浪記』と『オペラ放浪記2』には、色々な国のオペラ・ハウスのことも書かれているんですよね。
また読み直してみようと思います。(^^)
◇ ◇ ◇
わぉ! さっそく目を通してみたら原田さんの『オペラ放浪記2』の102〜103ページにマルタ島でのエピソードとロイヤル・オペラ・ハウス跡のことが載っていました。
うんうん、やっぱりそうですよね〜 私も同感です!(^^)
(15 Oct 2006 PM4:25追記)
【写真】
1991年当時のロイヤル・オペラ・ハウス・マルタ跡
(写真撮影・提供:原田満)
ナチス・ドイツ軍からの砲撃で崩れたロイヤル・オペラ・ハウス・マルタは、その後、建替え案も浮上したようですがメモリアルとして残されることになりました。
・・・が、ちょうど自動車社会がマルタにも到来、要塞に囲まれ、無駄なく合理的に計画されたヴァレッタの街には自動車を受け入れるスペースがほとんどありませんでした。
一番上の写真は1951年当時のロイヤル・オペラ・ハウス脇の広場の様子です。自動車がびっしり駐車されていますね。
そこで斬新なアイディア(?)ということでオペラ・ハウス跡が駐車場として使われるようになりました。その際、上部の部材が取り払われ、建物の側面の壁も一部、撤去されてしまったようです。
う~ん、メモリアルとか言いながら、かなりの現実主義ですね~(^^;
そして、ももんがさんがマルタを訪問された1991年までは、少なくとも駐車場として使われていたようですね。
そしてそして、今回、私も興味津々、壁の穴ぼこから中を覗いてみました。
すると!
中には舞台と観客席が設置されているではありませんか!?
「わぁ~ 野外劇場になってるぅ!そうだよね~ うんうん、そうこなくっちゃ!」
なんだか嬉しくなって、入り口に置かれていた柵のすきまから中へ、ちょっとお邪魔させていただいちゃいました。(^^; 不法侵入!
特に催しの準備がされていた訳でも、周辺にポスターが貼ってある訳でもなかったので、どんなものが上演されるのかわかりませんでしたが、ここで色んなジャンルの野外コンサートやオペラが上演されたらステキだなぁ♪
また、オペラ・ハウス正面に並んでいたアーチ型の入り口を利用して、アクセサリーショップや雑貨屋さんが軒を連ねていました。(^^)
第2次大戦後、東西対立の冷戦構造は定着し、地中海は西側諸国、ソ連・東欧圏、アラブ・パレスチナ地域、アフリカなど世界の諸勢力がひしめく最大の危険区域となりました。このような緊迫した国際状況のもと、マルタは英陸空海軍の要塞として使われました。
さらに1949年にはNATO(北大西洋条約機構)が結成され、NATO海軍の地中海総指令部がマルタにおかれていたそうです。
しかし、何度も繰り返しになりますが、1974年マルタはイギリスから独立し共和国となり、1979年には外国の軍隊を全て撤退させたそうです。
でも、今また、ちょっと心配なことがあります。
2003年、マルタはEUに正式加盟したので、この地域に紛争や戦争が勃発しEU緊急軍でも提示されたら「我国には海軍も空軍もありませんから〜」では済まされないのではないかということです。
EUへの協力という名のもと、再び、マルタの要塞や旧イギリス軍の施設が軍事目的で使われることが、どうか、ありませんように。
マルタは地中海のまん中という立地の良さから文明の交差路となりましたが、その一方で大国の戦略的要地として長いこと利用されてきました。
紀元前3,600年頃に巨石神殿を作ったとされる先住民がいましたが、紀元前800年頃、地中海交易の中継点として好立地のマルタに目をつけたフェニキア人がやってきて、その高度な文明から大きな影響を受けました。
その後も、ローマ、ビザンチン、アラブ、ノルマン、アラゴン、そして聖ヨハネ騎士団と様々な支配者からマルタは影響を受けました。
1798年、聖ヨハネ騎士団は、エジプト遠征途中のナポレオンから戦うことなく追放されてしまいました。(平和ボケしていたそうです。)
しかし、1800年イギリスのネルソンがマルタに上陸、フランスを降伏させ、1827年にはイギリス地中海艦隊の本拠をマルタに置き、インドをはじめとする東洋への進出基地としたそうです。
そして、第1次大戦中には、聖ヨハネ騎士団の築いた堅牢な要塞が、イギリス海軍及び連合艦隊の格好の主要基地となりました。
さらに、第2次大戦でも、マルタはイギリスの地中海最前線となり、ナチス・ドイツ軍によって4年間にわたって連日猛爆撃にさらされたのだそうです。
イギリス軍とマルタの人々は最後まで枢軸国の侵略からマルタを護りますが、その間に多くの尊い命が奪われ、ヴァレッタの街は破壊され瓦礫の山となりました。
そのメモリアルとして、ロイヤル・オペラ・ハウス・マルタは、今も、その無残な姿をそこに留めています。
(まだ、つづく)
【写真】上から
在りし日のロイヤル・オペラ・ハウス
ちょうど140年前の1866年10月9日 公式オープンしました!
崩れ落ちたロイヤル・オペラ・ハウス
1942年4月7日の夜 ドイツ軍から砲撃されてしまいました。
シティゲートをくぐり、ヴァレッタの街に足を踏み入れると直ぐ右手に廃墟があります。
重厚な建物が軒を連ねる共和国通りにポッカリとあいたその空間は「あら?何だろう?」と思わずにはいられません。
そう!それがロイヤル・オペラ・ハウス・マルタの廃墟でした。
穏やかな気候のもたらす青い空や美しい海に囲まれた島。
長く奥深い歴史とそれらに裏付けられた文化。
ゆったりとした生活を送る人々。
マルタの人々は自らを「世界一幸せな国の住民」と誇りにしているそうです。
短い期間でしたが私もマルタに滞在し「うんうん、確かに、そうだろうなぁ。」って思いました。
そういえば、ヨーロッパの街々で半ば当たり前のように見かける物乞いや浮浪者に(最近は東京でも見かけますが)マルタでは一度も遭遇しませんでした。
イギリスから独立して約30年、地下資源があるわけでもないのに、観光業、造船業、農水産物の輸出、IT産業などが、順調に成長してきたのだろうな。だから治安もとても良いし、人々にもゆとりがあって親切なのだろうな。マルタって本当にステキな国!と、現在の表面的な一部分を見ただけで、ずっと昔から何から何までハッピーで平和な国だったと勘違いをするところだった私に「そんなに単純じゃないのかも。」と気づかせてくれたのが正にこの廃墟でした。
思い起こせば、1989年12月、ソ連のゴルバチョフとアメリカのブッシュ(父)とで和平会議が開かれたのがマルタでした。
冷戦構造を終わらせた歴史的な会議の開催地に選ばれたマルタは、今でこそ「平和の象徴」と言えるのでしょう。でも、振り返ってみれば、マルタはその立地の良さから時代を超えて文明の交差路となり、大国の戦略的要地として利用された歴史も持っていたのでした。
(つづく)
マルタ共和国の首都ヴァレッタ(Valletta)は、マルタ島北岸の天然の両港に囲まれたシベラス半島の先端に位置しています。
1522年にスレイマン1世率いるオスマン・トルコ軍に敗れロードス島を追われた聖ヨハネ騎士団は、1530年に神聖ローマ皇帝・スペイン王カルロス5世からマルタ島、ゴゾ島、コミノ島と周辺の小島を与えられました。
そして、その後も続いたオスマン・トルコ軍からの襲撃に耐えられるようにと、聖ヨハネ騎士団の豊富な資金を注ぎ込んで1566年に着工された要塞都市がヴァレッタの基礎となったのだそうです。
イタリア人建築技師たちによって碁盤の目に作られた街並は、その頃はまだ珍しかった計画都市で、当時の騎士団長ジャン・ド・ラ・ヴァレッテ・パリゾン(フランス人)にちなんでヴァレッタと名付けられたのだそうです。
(この辺は、塩野七生『ロードス島攻防記』に詳しいです。)
・上空から見た首都ヴァレッタ
ガイドブックから拝借しました。
・ヴァレッタの街を取り囲む要塞
これをよじ登るのは難しいですよね。
・ヴァレッタのシティゲート
折しも旅行中の9月21日はマルタ共和国の独立記念日だったので、街中がマルタの国旗であふれていました。
シティゲートもご覧のとおりです。

・ヴァレッタの街並
ヴァレッタには坂や階段が沢山あります。真っ直ぐにのびた坂を昇りきると、真っ青な空と海が出迎えてくれます。
・ヴァレッタから対岸を臨む
ヴァレッタは小さな街。ちょっと歩けば、青い海や対岸の街の臨める場所が見つけられます。
「今年の夏休みはマルタに行ってくるよ~」って言うと
「マルタ? ん~? マルタってどこにあるの?」10人中9人から、そんな反応がかえってきました。
そうよね。
私も、カラヴァッジョが殺人を犯し追われて逃げた島という程度の認識しかなかったものね。(^^;
というわけで、まずはマルタの簡単な紹介から。
◆マルタ共和国(Republic of Malta)は1964年9月21日にイギリスから独立。1974年12月31日に共和制宣言をし、1979年3月31日に最後のイギリス軍が撤退した、とても新しい国です。
2003年5月にEU加盟。でも、まだ通貨はユーロになっておらず、マルタ・リラでした。(1ML=約¥377)
マルタ(Malta)、ゴゾ(Gozo)、コミノ(Comino)と呼ばれる3つの島と幾つかの小さな無人島からなり、総面積は316k㎡。
ガイドブックなどには淡路島の約2分の1と表記されていることが多いのですが、淡路島に行ったことのない私は全然ピンとこないので、他に何かいいものないかなぁって探してみたところ、ありました!ありました!
東京23区を合計すると621.49k㎡。
なので、マルタは、その約半分といったところですね。
とても小さな可愛い国でしょ。(^^)
◆位置は、ちょうど地中海の真んまん中。
シチリア島の最南端パッサロ岬から約72kmのところにあります。アフリカ大陸チュニジアからも288km位の距離です。
地図
氷河期にはシチリア島とマルタ諸島は地続きでしたが、その後の海面上昇で離れ離れになったのだそうです。
あ、もしかして、地球温暖化がどんどん進むと、マルタもそのうち沈んでしまうのかなぁ? いやだぁ~!
◆公用語はマルタ語と英語
はい! ではここで簡単なマルタ語講座
こんにちは ボンジュ
こんばんは ボンソワ
さようなら チャオチャオ
ありがとう グラッツェ
マルタ語はアラビア語に近いと聞いたはずなんだけど、なんだか、フランス語のような?イタリア語のような?!(^^)
これもヨーロッパ各国から集まった聖ヨハネ騎士団(後のマルタ騎士団)からの影響なのかな?
【写真】
マルタ共和国の国章
(騎士団長の宮殿(現在は大統領府)の色大理石の床より)
青い海とハチミツ色の島
紀元前3600年頃の巨石神殿
16世紀につくられた古都
女性の一人歩きも全く心配ない治安のよい街
カラヴァッジョも観られたし、海で泳げたし、一応、スケッチもできました。
とても楽しかったぁ〜(^^)
ついつい調子にのって500枚以上も写真を撮ってしまい、どこから手をつけたらよいのか頭の整理がついていませんが、旅の余韻の消えないうちに復習も兼ねて記事を書いていこうと思ってます。
ま、私のことだから、いつになるのか? 最後まで書けるか? ちょっと疑問ではありますが。。。(^^;
コミノ島
イムナイドラ巨石神殿跡
イムディーナの街
聖アンジェロ砦
ヴァレッタの猫ちゃん
ヴァレッタの街角
今日から地中海に浮かぶ小さな島マルタ共和国へ
一週間ほど行ってきます。
のんびりと島を観光して・・・
カラヴァッジョの代表作を観て・・・
絵を描いて・・・
できたら地中海で泳いじゃお〜と思ってます。(^^)
ではでは、いってきま〜す!
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