須賀敦子さんと麻布
新しい年を迎えた穏やかな休日の朝、須賀敦子さんが父豊治郎さんの東京転勤にともない小学校3年から女学校3年までの期間(1937~1943)と、フランスに留学するまでの大学院生時代(1951~1953)をすごした麻布本村町界隈を散策して来ました。
以前にも一度、調べものがあって有栖川宮記念公園内の都立中央図書館へ出かけた際、そう言えば須賀さんの「麻布の家」って確か有栖川公園の近くだったなと、周辺を少し歩いてみたのだけれど、その時は急ぎ足だったので、今回は、ゆっくり、かつて須賀家の住まいのあった一角を探してみたり、妹の「こじょんちゃん」と一緒に歩いた聖心女子学院までの通学路を辿ってみました。
外国の大使館が多く、緑豊かで、娘二人が通う学校にも近いからと父豊治郎さんが選んだ麻布本村町は小高い丘の上の閑静な住宅街で、須賀さん一家が暮らす大きな古い家の建っていた116番地は、現在の南麻布三丁目6~8、11番一帯を含む広い敷地だったようです。
『遠い朝の本たち』に収録されたエッセイの一節から、当時、その家の2階の窓から古川をへだてた向い側の丘に聖心女子学院の尖塔や伝染病研究所(現東京大学医科学研究所)の建物が臨めたことが解るのですが、現在は、その谷間に林立したビル群に遮られてしまい同じ眺めを確認するのは無理でした。
しかし、すぐ近くに、弟の新さんも通っていた港区立本村小学校が今も変わらずに存在しており、この辺りが須賀家の子供たちやご近所友達のマサコちゃんが遊びまわっていた場所に間違いないと確信できたのでした。
ただ、どうしても見つけられなかったのがエッセイの中に何回も登場する「光林寺坂」でした。
地図上にも現地の標識にも、それらしきものは見当たりません。麻布本村町と古川にかかる五之橋をつなぐ坂と言ったら新坂だけです。
ううむ、もしかして、もしかすると・・・
こんな時は地元のお年寄りに訊ねるのが一番なのだけどなぁ・・・
と、あれこれ考えながら横道に入ってみると、ちょうど目の前を老婦人が歩いていました。
よし!思い切って声をかけてみよう!
すると、ああ、やっぱり!
地元の人は、その坂道を「新坂」とも「光林寺坂」とも呼んでいることが、いとも簡単に解りました。
品のいい普段使いの毛皮のコートを纏ったそのご婦人は、もう麻布本村町に住んで50年以上になるのだけど、最近、随分とこの辺りも変わったものだと眺めながら久しぶりの散歩をしていたのよと、懐かしそうに昔の街の様子を聞かせてくださいました。
女性にお礼を言い、謎が解けスッキリした気分で光林寺坂を下りきると、古川にかかる「五之橋」が首都高の影に隠れるようにありました。
この辺りには小さな町工場が軒を連ねていたそうで、学校からの帰り道、機械から削り出される金属のクズや雲母のかけらを拾ったエピソードがエッセイの中にも綴られています。
そう言えば、お小遣いを貯めて花束を作ってもらった花屋の「花よし」さんが、この小さな橋のたもとにあったはずですが、首都高建設時にでも立ち退きを迫られたのでしょうか、残念ながら見つけることはできませんでした。
五之橋を渡り商店街を抜け、一旦、道を左に折れ、更に三光坂下から大きなお屋敷のつづく三光坂を上って行くと、坂の上の右手に並木道が現れました。その坂道を下った先にユニークなデザインの聖心女子学院の正門が見えたのでした。
屋根のついたアーチ型の門は広島の原爆ドームを設計したチェコ人ヤン・レツルが1909年(明治42年)に作ったものだそうです。
間違いなく須賀さんもくぐった門です。
南麻布から白金まで坂道を上ったり下ったり、小学生の女の子の足では片道30分位はかかったであろう通学路を辿り、関西から東京へ引っ越して来て、なかなか新しい学校にも、庭の狭い古くさい家にも馴染めなかった少女時代の須賀さんに思いを馳せながら、私の小さな旅も終わりました。
おまけを一つ。
この日、広尾駅の近くに赤いドアの可愛いお店を発見♪
何と!それは少女だった頃の須賀さんも夢中になった『少女の友』や『ひまわり』『それいゆ』など美しい挿絵の少女向け雑誌で知られている中原淳一さん(1913〜1983)のショップだったのです。
夢いっぱいの小物から復刻版の雑誌まで多彩な品揃えに、私も思わず財布の紐が緩んでしまいました。