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03 February 2008

「異才伝」須賀敦子 その3

「異才伝」 I remember 須賀敦子 その3
「朝日新聞(夕刊)」2007年1月19日(金)より転載

■あどけなさ見せたミラノの日々  山縣 壽夫

 69年夏、ローマ。初対面でうち解けて、以来僕らはのべつといっていいほど始終、行動を共にすることになる。同じミラノの至近距離に住むご近所だった。来ない? 食事しない?
 誘い合って、昨日も今日も会って話をした。
 まだ足りなくて次の日も。何をそんなにしゃべったものか・・・・・。不思議に内容を覚えていないのです。なんとなしの会話。それが愉しくてつきなかった。

   ◇  ◇  ◇

 我々は貧乏彫刻家であり、画家であり、須賀さんはご主人に先立たれて日本文学をイタリア語訳する仕事をしながらつつましく自活していた。お互いお金はなかった。そのかわり時間だけは、ふんだんにあった。
 あどけないところをもち続けた人だったと思う。うちに、自作の鉄板をはめこんだお好み焼きが出来る食卓があったのだが、須賀さんは、だいじょうぶ? なんていいながら、その下にもぐりこんで据え付けコンロを点検する。興味津々のこどもみたいだった。
 いたずらもした。知り合いの紹介で一面識もない日本人をミラノの空港に出迎えることになったとき、須賀さんが、一芝居うとう、という。僕にふられた役はミラノ縞なんて、ありもしない模様の研究家で彼女はマネージャー役。真に受けた客人相手に僕は立ち往生したけれど、彼女は堂々と演じてましたね。
 川遊びにいって須賀さんが水に落ちたことがあった。ぬれたズボンを、車のトランクのふたにかけて乾かしたんだけれど帰るだんになって忘れて発進。後ろからクラクションが鳴る。振り返ると須賀さんのズボンが幟旗みたいに風に踊っていた。

  ◇  ◇  ◇

 71年に須賀さんは帰国した。ミラノが創造の現場だ、と心に決めた僕らにも異邦人の思いはつきまとった。根無し草になる不安を抱えていた。あのとき須賀さんも、やはり自分の根っこは日本だと決断したのか、どうか。深く問うことなく僕らは別れたけれど、ああ帰ってしまうんだ、と。すごく寂しかった。
 日本でも前みたいに話そうよ、といってたんです。でも、なぜだろう、予定があわない。不自由だった。あんなにいっぱいあった若かった日の"時間"を、僕らは失った。(談)


山縣 壽夫(やまがた ひさお)
32年、奈良県生まれ。彫刻家。元武蔵野美大教授。「横たわる三角」(平櫛田中賞)など作品多数。62〜76年、妻の画家・塩川慧子さんとともにイタリアで活動。


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