« January 2008 | Main | March 2008 »

21 February 2008

ダニエル・ハーディング&東フィル@サントリーホール

Harding2008年2月15日(金)
サントリーホール

指揮:ダニエル・ハーディング
東京フィルハーモニー交響楽団

マーラー:交響曲第6番「悲劇的」

   ◇  ◇  ◇

もう先週のことになってしまいましたが、ハーディングの指揮でマーラーの6番を聴いてきました♪

6番はマーラーの交響曲の中でも、特に好きな作品なので、とても楽しみに出かけました。
ホールに入ると、舞台上にはところ狭しと詰め込まれた演奏者たちの椅子。
そしてずらりと並んだ打楽器。
あ! ハンマーもあるある。(^^)

ハーディングの指揮を初めて聴いたのは、1999年のエクス・アン・プロヴァンス音楽祭日本公演《ドン・ジョヴァンニ》だったのですが、あの時の演奏と舞台は今でもハッキリ思い出すことができるくらい瑞々しく素晴らしかったなぁ。(^^)
あの時、少年のようだったハーディングも、もう30代になったはず。
しかし、まるでヤンチャ坊主のような指揮ぶりは変わってなく、小柄でか細いあの身体のどこからあんなパワーが出てくるのだろうと不思議に思えるほど。
時にオケがついていけないのじゃないかと心配になるくらい緩急メリハリの効いた良い意味で緊張感のある演奏でした。

そして、ハーディングが、ゆっくりと指揮棒を胸の前に手で包み込むようにして終わった最終楽章。
かなり長い間、音の無い時間が流れ、その後の割れんばかりの拍手、凄かった~

これまでに色んなオケで6番を聴いたけど、今回のハーディング&東フィルが、マイベストになりました♪

| | Comments (2)

04 February 2008

「異才伝」須賀敦子 その4

「異才伝」 I remember 須賀敦子 その4
「朝日新聞(夕刊)」2007年1月26日(金)より転載

■活動の場、10年ごとに変える  松山 巌

 須賀さんの文学活動をどうとらえるか。僕も含め、たぶん多くの人は61歳のデビュー作「ミラノ 霧の風景」以降しか知らない。でも、彼女の作家性の起点はそのはるか以前にあった。遺作を編み年譜をつくる中で実感したのはそのことです。

   ◇  ◇  ◇

 会えば酒を飲み冗談をいいあう友人ではあったけれど、とうとうと自分を語る人じゃなかったから須賀敦子という人がどういう人生を生きてきたかってことは僕にとっても謎だった。
 勘なんだけど、彼女はほぼ10年ごとに自分の位置を変えている。ひめゆり部隊は同世代だといっていた。戦後いち早く読んだヨーロッパの抵抗文学への関心が引き金になったのか、渡仏してカトリック左派と呼ばれる信仰者の存在を知る。30代を過ごしたイタリアでは、元パルチザンや労働歌を歌い教会に忌避されるような神父と出会う。ミッションスクールで育った彼女にとっては異端者だったろう。でも彼らにとけ込んでいく。
 何げない言葉に、えっ?と思うことがよくあった。イタリア戦後文学の潮流をつくった文学史上の作家との交流をさらっと話す。谷崎、鏡花、石川淳なんかが大好きで、ものすごく詳しかった。ミラノ時代、彼女はイタリア語訳の近現代日本文学選集を出しているのです。

   ◇  ◇  ◇

 クズ屋だったの、なんていうことがあった。また、えっ?と思う。帰国後の一時期、須賀さんは廃品回収の収益を慈善にあてるエマウス運動に没頭した。やがて大学の教壇にたちギンズブルグなどを訳して翻訳家として世に出る。そしてイタリアの日々の記憶をエッセーに紡ぎ始めるのだけれど、日本人が喪失した友情とか謙譲ということに思いを誘うあの一連の作品は彼女の現代批判だったと思う。
 60代で書く人としてのポジションを固めた彼女は、次の段階を準備していた。あるフランス人修道女を主人公にした小説の未定稿を残してます。自身の半生を重ねながら"信仰に生きるとはどういうことか"という彼女の背骨であったはずの問いを託そうとしたのだと思う。仮題がありました--。「アルザスの曲がりくねった道」(談)


松山 巌(まつやま いわお)
45年、東京生まれ。東京芸大卒。評論家、作家。『闇のなかの石』『群衆』『世紀末の一年』など著書多数。「須賀敦子全集」(河出書房新社、全8巻)」編集委員。


「異才伝」須賀敦子 その1
「異才伝」須賀敦子 その2
「異才伝」須賀敦子 その3

| | Comments (4)

03 February 2008

「異才伝」須賀敦子 その3

「異才伝」 I remember 須賀敦子 その3
「朝日新聞(夕刊)」2007年1月19日(金)より転載

■あどけなさ見せたミラノの日々  山縣 壽夫

 69年夏、ローマ。初対面でうち解けて、以来僕らはのべつといっていいほど始終、行動を共にすることになる。同じミラノの至近距離に住むご近所だった。来ない? 食事しない?
 誘い合って、昨日も今日も会って話をした。
 まだ足りなくて次の日も。何をそんなにしゃべったものか・・・・・。不思議に内容を覚えていないのです。なんとなしの会話。それが愉しくてつきなかった。

   ◇  ◇  ◇

 我々は貧乏彫刻家であり、画家であり、須賀さんはご主人に先立たれて日本文学をイタリア語訳する仕事をしながらつつましく自活していた。お互いお金はなかった。そのかわり時間だけは、ふんだんにあった。
 あどけないところをもち続けた人だったと思う。うちに、自作の鉄板をはめこんだお好み焼きが出来る食卓があったのだが、須賀さんは、だいじょうぶ? なんていいながら、その下にもぐりこんで据え付けコンロを点検する。興味津々のこどもみたいだった。
 いたずらもした。知り合いの紹介で一面識もない日本人をミラノの空港に出迎えることになったとき、須賀さんが、一芝居うとう、という。僕にふられた役はミラノ縞なんて、ありもしない模様の研究家で彼女はマネージャー役。真に受けた客人相手に僕は立ち往生したけれど、彼女は堂々と演じてましたね。
 川遊びにいって須賀さんが水に落ちたことがあった。ぬれたズボンを、車のトランクのふたにかけて乾かしたんだけれど帰るだんになって忘れて発進。後ろからクラクションが鳴る。振り返ると須賀さんのズボンが幟旗みたいに風に踊っていた。

  ◇  ◇  ◇

 71年に須賀さんは帰国した。ミラノが創造の現場だ、と心に決めた僕らにも異邦人の思いはつきまとった。根無し草になる不安を抱えていた。あのとき須賀さんも、やはり自分の根っこは日本だと決断したのか、どうか。深く問うことなく僕らは別れたけれど、ああ帰ってしまうんだ、と。すごく寂しかった。
 日本でも前みたいに話そうよ、といってたんです。でも、なぜだろう、予定があわない。不自由だった。あんなにいっぱいあった若かった日の"時間"を、僕らは失った。(談)


山縣 壽夫(やまがた ひさお)
32年、奈良県生まれ。彫刻家。元武蔵野美大教授。「横たわる三角」(平櫛田中賞)など作品多数。62〜76年、妻の画家・塩川慧子さんとともにイタリアで活動。


「異才伝」須賀敦子 その1
「異才伝」須賀敦子 その2
「異才伝」須賀敦子 その4

| | Comments (0)

« January 2008 | Main | March 2008 »